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ではなぜ今の仏教が「葬式仏教」と言われるようになってしまったのでしょうか。
それはお寺が、亡くなった人を主に「扱う」ようになってしまったからでしょう。
本来の仏教は生きている人達を対象にした教えなのです。
「昔はそうだった」のではなく、今も実はそれが本題なのです。
仏教では「生死事大」と言います。「生」と「死」の問題が大事なのです。
般若心経にある「不生不滅」の言葉の意味は、生と死は別のものではない、 一体のものだと捉えています。
真理の世界では「生死一如」とされています。
つまり生と死は表裏一体であり、正しく「生」を理解すれば同時に 「死」も正しく理解されるということになるのです。
つまり仏教は「生死」の問題を看板にしていたのが、 いつの間にか「死」の問題が優先されるようになってしまいました。
それはあまりにもこの世の矛盾や不条理に苦しんだ人達が多かったのでしょう。
浄土思想の興隆にも伺えます。
この世の不幸を嘆き来世にこそ思いを馳せることにより、 「死後」の幸福を願う「宗教」になってしまったような気がします。
もちろんそれはそれで救われた人達も大勢いました。
しかし、死後も大切ですが、生前こそもっと大切だと思いませんか。
いまのこの掛け替えのない人生をもっと豊かなものにしたいとは思いませんか。
豊かとは「物」ではありません。「心」の問題です。念のため。
本当のしあわせとは心の「安心」(あんじん)にこそあるのです。
確かに人生四苦八苦です。
四苦八苦が人生なのです。
しかしそれらの苦しみから救われる人と救われない人がいるのです。
ここに最大の問題があるのです。
毎日大勢の命が奪われています。
大人が子供を、子供が大人を、ひとがひとを殺めています。
他方なぜこんなにも多くの人が自殺するのでしょう。
なぜ集団で自殺する必要があるのでしょうか。
確かに当人しか解からない苦しみがあったのでしょう。
しかし最近では理由のよく分からない殺人・自殺が増えています。
いずれにしろ救われなかった人達です。
当山の檀家さんの中にも自らの命を絶った人がいました。
お寺や住職には事前に何の相談もありませんでした。
その人にとってはこの世から去るにあたりお寺の存在意義は無かったのです。
だからといってその方が果たして死後をお寺に託していたと言えるでしょうか。
私には自信がありません。実に無力感だけでした。
幸せに生きて、安心して来世に往くこと、これが仏教の目指すところです。
その本来の仏教の方向にもっと目を向けさせてくれる「僧」が求められているのではないでしょうか。
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| 正木山西光寺住職
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