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かけこみ寺ご相談掲載ページ
このページではかけこみ寺に届いたメールの中から、プライバシーに問題のない、一般的・普遍的なご相談を掲載しています。


  ■平成20年5月27日  静岡県 20代男性からのご相談(※一部修正してあります)
はじめまして。私は、妊娠中の妻を持つ会社員です。
毎日の生活に不満もなく、日々楽しい毎日です。
先週末飲み会の予定が入ったので、飲み会に参加しました。
仕事の愚痴も入りいつもより多く飲んだと思います。

泥酔し、足元もおぼつかないまま駅まで到着しました。
あとは駅からタクシーで帰るだけでしたが、駅の入り口付近に、同じく泥酔している女性を見つけ声をかけました。
はじめは、何もやましい心もなく声をかけただけですが(本心は違ったかもかもしれません。)家まで送るといって、その途中過ちを犯してしまいました。
相手も家庭を持っており、その場で名前も電話番号も交換せず、お互い の家庭のこともあるから、何もなかったことにすることで分かれました。

翌日、うそをついている自分に無性に腹が立ち、何ともいえない気持ちになりました。
過ちを犯してしまった自分にどうしたらよいのか分からなくなっています。
妻に本当のことを言ってしまうことが良いのかと頭をよぎることもあります。
子供がまもなく生まれるという一番大切な時期に嘘をついてしまっている自分に腹立たしく、懺悔したいと思いメールいたしました。
罪を取り返すことはできないと思いますが、懺悔する方法をご教示ください。

「操」(みさお)という言葉がすっかり死語になってしまったのが今の日本です。
それに代わって「不倫」という言葉がすっかり定着してしまいました。
それだけに今回のあなたのようなケースは特にめずらしいことではありません。
そう考えるとまだ20歳代のあなたが今回のことを強く反省して懺悔しようとしていることにむしろ感心するくらいです。

今や日本は世界に名だたる"不倫天国"と言われていますが、その"天国"の実体は"地獄"であることを知るべきでしょう。
因果の法則からいっても不貞、不倫から良い結果が生まれる筈は絶対にありませんから。
みてください。その証拠に不貞や不倫が原因で起こる犯罪がほんとうに多いのです。
性欲は大変重要な本能であり生命力ですが、扱いを誤るとそれは人の理性を狂わせてしまいます。それはちょうど「嘘」と同じです。

はじめは心に咎を感じますが、それが繰り返されるとやがて良心の呵責も麻痺して
きます。
気がついたら自分自身大変な詐欺師になっていたという人のことを先日ワイドショーで
やっていました。
不貞、不倫もまったく同じです。
はじめは反省したとしてもそれが繰り返されると、やがて「普通」になってしまいます。
やがてとりかえしのつかない事態になって「後悔先に立たず」と反省しても後の
祭りです。

そんな事態になる前に反省できたあなたはほんとにラッキーです。
すばらしい奥さんとこれから生まれてくるお子さんのためにもしっかりと反省して
ください。
欲望に負けそうになったら、最悪の結果をシュミレーションしてみるのも一計かもしれません。
家族の顔を思い出してみるのも良いかもしれません。

さらに効果的なことは次の 仏教の戒律を口ずさむことです。
「第一不殺生戒(殺生をしない)」
「第二 不偸盗戒(盗みをしない)」
「第三不邪婬戒(邪淫をしない)」
「第四不妄語戒(嘘をつかない)」と唱えてください。
「不邪婬戒律」は三番目に重い戒律であるということを自分に言い聞かせ、それを心から実行することができればそれがあなたの求めているほんとうの「懺悔」となるでしょう。

合掌      


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  ■平成20年1月14日  宮城県 30代女性からのご相談
はじめて、メールでご相談させていただきます。
自分は、観音様をおまつりしていて、観音様のお力で、日々ご先祖様のご供養をさせていただいています。
観音様をおまつりしている事を許して下さる方と、ご縁をいただき、結婚いたしました。

しかし、主人のご実家(姑さんやご兄弟)ご親戚の方、こちらの地方の方々、皆様が、「観音様は怖い」など、恐ろしいから、返しなさいと、観音様の事をひどく言われます。
子供にも冷たくあたられてしまいます。
しかし、自分の人生から、観音様をお返しするなど、考えられません。
「私から観音様を取り上げないで」といつも、心の中で叫んでいます。
これは、自分の試練だと思い、頑張っていますが、とても辛いです。
どうしたらよいのでしょうか。
また、頑張っていたら、いつの日か、わかって下さる日は訪れるのでしょうか、
教えてください。

観音様をお祀りしてご先祖様のご供養と日々の幸せを願っているというあなたは
すばらしいお方です。

人は皆それぞれ一人一人弱い存在です。
また、人である以上、生きている以上、必ず困難にぶつかるのが人間の宿命です。
困難にぶつかり、迷ったり、苦しんだり、悲しんだりするのは当然なのです。
だからこそ人には心の支えが必要なのです。心を護る術(すべ)が必要なのです。

その術こそが「信仰」なのです。
人にはしっかりとした信仰こそ絶対に必要なことだと私は思います。
信仰は心の羅針盤です。常に正しい方向を教えてくれる人生の羅針盤なのです。
人は正しい方向が分らなくなるから道を誤るのです。

今の世の中を見るとヒドイ犯罪がどんどん増えています。
特に身内関係者による殺人、暴力が犯罪の内の4割にもなるそうです。
何ということでしょう。何より人の心が荒んでいる証拠です。

心が荒むのは心の救いが無いからです。
心が救われないから理性も情も無くなるのです。
問題や犯罪を起こす人たちは理性も情も無くなった結果です。

今こそ、人には「信仰」という人生の羅針盤が必要とされています。
正しい信仰・・・それは幾つもあるでしょうが、その一つが観音信仰です。
その信仰を持っているあなたはすばらしい人に違いありません。

観音様とはどんな人でも信じる人を救ってくださるのです。
直接姿を現し、語るということはないでしょう。
しかし、心を通して人生の羅針盤を与えてくれます。
それにより、的確な思考力と判断力を得ることができるのです。

さて、それにしても、折角ご理解あるご主人とご結婚されたにも拘らず、その親族の
理解がないと言うのは残念なことですね。
「観音様は怖い」とはどうゆうことでしょうか。
特異な宗教の信者ならともかく、一般的な日本人なら普通観音様に対してあまりマイナスイメージは無いと思います。
ご家族の内の一人や二人が特に変わり者であるならばともかく、家族や親戚、その子供達までがあなたの行動を問題だとしているのが私には理解できません。

あと私の考えられることでは、あなたの信仰の姿が特別な印象を与えてはいないかと
いうことです。
明けても暮れてもただただ「観音様」中心の生活イメージを与えてはいないかと
いうことです。
特に宗教に関心のない人は過剰な印象を受けることがありますので、その点をご確認
ください。

信仰の姿は他人には様々の印象を与えます。感動もあれば不快もあります。
信仰は個人の問題だけに、車中の携帯電話と同じでまわりに配慮する必要も
あるでしょう。
もし、周りに配慮できない感覚であればその人は特異な信仰の世界に陥っている
可能性があります。

特異な信仰の世界とは、良識や常識の範疇を逸脱した、虚偽や妄想や誤解によって陥る
邪教の世界のことです。
今の世の中、宗教を語る犯罪もたくさんありますから十分に注意する必要があります。

またそのことで正しい宗教でさえ誤解や過剰反応を受けることがあるのは残念な
ことです。
あなたの場合も誤解されていることも十分考えられますので、これからそのことを
念頭においた対応を心がけてみてはどうでしょうか。

あなたが絶対の信頼を寄せている観音様です。貴方を護ってくれる筈です。
そのことも含めてこれからも是非観音様のご供養をお願いします。
あなたのような人が増えたら世の中もっともっと良くなるでしょうにね。
そのようなことを願ってわたしも僧侶として精進したいと思います。

合掌      

  ■平成20年1月17日  宮城県 30代女性からのご返信(一部修正を加えさせていただきました)
お返事メールを、本当にありがとうございました。
とても、励みになりました。 また、頑張れます。

母が亡ってから20年ですが、母の命日には菩提寺のお坊様にご供養をおねがいしてまいりましたが、 仕事の為だったのか記憶は、さだかではありませんが、都合で、お寺へ足を運ぶことが出来ませんでした。
そのときに、自宅の観音様へしっかりと母のご供養をお願いさせていただきました。
その時の子供との会話でとてもうれしいことがありましたので紹介させていただきます。

私:「ママ、おばあちゃんの命日なのに、お寺まで行くことが出来なくて、こちらからご供養させていただいたんだけれど・・ おばあちゃんは、怒ってないかなぁ?寂しがってはいないかなぁ?」
子供:「ママ、もしも、ママが死んで、私が自分でママをご供養してたら、どう思う?」
私は、びっくりしました!「そんなに嬉しい事はない!!」
子供がまた教えてくれました。
私:「じゃあママ。20年前の今日、ママにとってはとても辛い日だったけど、今日のおばあちゃんは、ママにご供養してもらって、とっても嬉しい日になってるね。」

子供のおかげで、ご供養される側(母)の本当の気持ちに気づかされ、信仰の大切さ、ありがたさを知る事が出来ました。
観音様の慈悲のお力で、その後もとても幸せです。 新しい命も芽生えました。
観音様は何とも素晴らしい事を、本当に心の底から 実感させてくださいます。

そして今は、そちらのホームページを拝見させていただき、勉強させていただいています。
辛いとき、苦しいとき、本当に勉強になります。
これからも、頑張ってください。心から、応援しています。
ありがとうございました。


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  ■平成19年9月30日  京都府 30代女性からのご相談
はじめまして。
今回、お寺のお坊さんに、悩み相談をしたく、探していましたら、偶然、西光寺さんの
駆け込み寺を見つけ、メールを送らせていただいています。
私は、今、うつ病になってから、半年弱が過ぎようとしています。
以前にも、パニック障害という心の病にかかり、完全には完治していません。

-------------------(一部省略)-------------------

病気になっても、家族や友人もなかなか優しく接してくれず、人間の冷たさをひしひしと感じました。
家族や友人が病気になっても、何の言葉や手助けもかけてくれず、遊んでいる家族。
自分の悩みや、愚痴を撒き散らす行為。
病気になったと連絡しても、返事のない友人。こんなことが続き人間不信気味です。

人は、困ったり、辛いときこそ助け合うのだと思うのですが、最近は、良いときだけの付き合いのような気がします。
病気になったら、人は離れてゆくのは、世の常でしょうか?
それとも、私の今までの行いや、前世の行いが悪かったからでしょうか?

私は、今の世の中の、自己中心的で、快楽や物質を求め、人を助けたり、人のために働いたりしない中で、自分だけがまじめに生きるのはとても難しいと思うのです。
ですが、かといって、自分の性格を変えて、自分も自己中心になることはできません。

御住職はどう思われますか?
お釈迦様はどのように生きるようにおっしゃっているのでしょうか?
宜しくお願いいたします。

西光寺です。
たしかに今の世の中、自分勝手の人が多くなりました。
あなたのおっしゃるように、「自己中心的で、快楽や物質を求め、人を助けたり、人のために働いたりしない」 人達が増えてしまったのは明らかです。

それは、心よりも物質が優先されてきた価値観によるものです。
みてください。地位やお金のある人ばかりがちゃやほやされ威張っています。
人の価値があたかも地位や財産で決まってしまうような錯覚すら起こしてしまいます。

その錯覚から、弱い者は下に見られたり、相手にされなくなるのです。
弱い者とは貧しい人、病弱な人、ハンディキャップのある人等です。
これはとんでもない差別です。
教育では差別は絶対ダメだと教えていますが、現実はそうではありません。

人の価値は「心」で決まるのです。
人の価値は社会的地位やお金や財産などの量とはまったく関係ありません。
その証拠に、人類史上最も貧しかったのはお釈迦さまです。
でもこころは人類史上最も豊かな人でした。
真の豊かさが「こころ」で決まるという証明です。

しかし、今の日本社会をみてください。
こころの無い、思いやりや優しさのない社会になってしまいました。
政治は弱者切り捨てで格差社会が一段と厳しくなっています。
自分は負け組みには入りたくないと思いからどんどん身勝手になるのです。

思いやりと優しさという「こころ」の躾教育が無くなってしまった結果
家庭には虐待、学校にはいじめが蔓延してしまったのです。

さらにその結果自殺や犯罪がどんどん増えました。
心の失われた世界にあるのはもはや餓鬼、畜生、修羅の世界です。
正直者がバカをみるような社会はやがてほんとうの餓鬼、畜生、修羅の世界に
なってしまいます。

人間は生物学的には完成された生物(いきもの)かもしれませんが、質的には一向に
進化していません。
イヤむしろ退化しているといってもよいかもしれません。
2500年も昔に、お釈迦さまはそれを「末法の世」として予言されていました。

社会秩序の元は政治です。その元は教育です。その元は家庭と学校です。
それら全ての元は「こころ」の教育なのです。
その教育の元が宗教なのです。
持論ですが、日本社会がこのように悪くなったのは宗教がなおざりにされた結果です。

お釈迦さまはそのことを最も心配されていたのです。
2500年も昔に人の性(さが)と本質を見極められていたのです。
だからこそお釈迦さまは真実の教え「仏教」を全身全霊、命がけで布教されたのです。

仏教はそれほどの価値のある教えなのです。
末法の現世もはや人を救えるのは仏教しかありません。

あなたのように信念をもっている人は立派です。
たとえ今一人であってもその思いは必ず因となり縁となって周りに波及してまいります。
お釈迦さまは真実の法である「仏法」を鏡として生きなさいとおっしゃっています。
その教えである 仏教を信じてください。 真実は決して裏切りません。

合掌      


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  ■平成19年9月2日  新潟県 30代女性からのご相談
はじめまして。
こちらのホームページを拝見して、大変心に響くものがありました。
私のような救いを求める人間に対し、こうして手をさしのべる活動をして頂いている事に心から感謝します。ありがとうございます。
過去のご相談のお返事など読ませていただきましたが、涙がこみあげるものが
ありました。

先日、瀬戸内寂聴さんの本を読みまして、ざんげをしたら仏様は必ず許してくださる、
との言葉に勇気と感謝の気持ちがこみあげました。
と同時にどこでざんげをすれば良いのだろう?と疑問に思い、色々なお寺のホームページを探しまわりました。

私は、過去犯した過ちを償い出直していきたいと思っています。
毎朝手を合わせ、心で謝罪を申し上げていますが、これがざんげに当たるのか疑問で、
どうすれば過去の過ちを償う事が出来るのか教えて頂きたく、ずっと疑問に思っていたところ、こちらのページを見付けまして、何かお言葉を頂けるのでは?と思いメールさせて
いただいてます。

過去の過ちというのが、ホントに申し上げるのが恥ずかしいのですが、私は若い頃(10代〜20代なかば)随分年上の男性にばかり魅力を感じ好きになっていました。

-------------------(一部省略)-------------------

私自身も困難続きな状態が続き、このような事態に陥り、はじめて過去の罰が当たったのだと思うようになりました。
仏様になられた方が、仕返しをするなどとは思っていません。
きっと、本気で反省をすれば、気持ちは届いているのではないか?と思う事もあります。
ただ、やはり、人を苦しめたら自分にも返ってくるものだと思いました。

むしが良すぎるかも知れませんが、わが身に起きてからはじめて気付きました。
そこから、冷静に色んな事を考えるようになり(今更遅いかもしれませんが)ここ1年前から、自分の犯した罪の重みを感じ、本気で反省するようになりました。

もう2度と同じ過ちは犯さない事、これからは償いの意味を込め人の為に役にたてるような生き方をしたいと心に誓っています。
より強く反省が伝わるような毎日の行いなど、何かあれば教えて下さい。
自分がしでかした事ですが、毎日いてもたっても居られない気持ちで、どうこの気持ちを整理したら良いかも分からない毎日なのです。

西光寺です。
あなたのメールを何度も読ませていただきました。
今のあなたは十分反省しています。
そしてあとは懺悔(仏教では「さんげ」と濁らずに読みます)が十分かということ
ですね。
あなたの反省の気持ちが晴れないのは懺悔の仕方と意味が分かっていないからだと
思います。

仏教の懺悔の意味は、特に何か特に悪いことをした時はもちろんですが、それだけの意味ではありません。
人は意図的であれ無意識であれ罪を犯す存在なのです。
イヤ罪を犯さずには生きていけない存在なのです。
人は生きているだけで他の存在からどれだけの恩恵を受けているでしょう。
また同時に他人のみならず環境やあらゆる存在に迷惑をかけているのが実態なのです。

たとえば食事をとるにしても他の命を戴きながら、さらに環境に迷惑えを与えたり壊したりしながら自分の命を養っているのです。
お金の問題ではないのです。
自分の命や健康はすべて一切衆生の恩恵に預かっていると捉えるのです。
だからこそ仏さまに感謝はもちろんのこと、同時に懺悔の祈りこそ必要のです。

朝夕に仏様に感謝と懺悔こそ本当の祈りであり供養なのです。
感謝と懺悔で迷いや邪悪な心から護られるのです。
無事息災な人こそ懺悔をしているのです。

悪人と善人の違いはただひとつ感謝と懺悔のこころが有るか無いかです。
見てください。悪いことをする人は絶対に感謝も懺悔もしていませんから。
するのはせいぜい次は失敗しないように、警察につかまらないように「反省」しているだけです。

反省と懺悔はまったく違います。
ほんとうの懺悔とはほとけさまを心から信頼し心を開きすべてを打ち明け謝るのです。
その時点に至ってはじめて仏様は一切の過ちを許してくれるのです。

そして結果はすべてほとけさまにお任せするのです。
仏様は言葉では語ってくれません。
あなたのこころとなってあなた自身となって次の行動に現れるのです。

そのときからあなたはもう孤独な一人ではありません。
いつでも仏様と行動していることになるのです。
もう悪いことはできません。
その次元に至って懺悔のほんとうの意味と目的が完成するのです。

「自分がしでかした事で毎日いてもたっても居られない気持ち」は懺悔することで必ずなくなります。
さいごに「懺悔文」をご紹介します。
仏様に朝と夕(寝る前とか)にこころからお唱えしてください。
心とかたちが大事です。できましたら毎回しばらく21遍お唱えください。こころと体が楽になってきます。

「我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋痴、従身口意之所生、一切我今皆懺悔」
(がしゃくしょぞう、しょあくごう、かいゆうむし、とんじんち、じゅうしんくいし、
  しょしょう、いっさいがこんかいさんげ)

合掌      


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  ■平成19年9月2日  鹿児島県 20代女性からのご相談
ご住職様 子供をひとり持つ母親です。
まだ病院には行っておりませんが、どうも2人目を妊娠したようです。
子供を出産した後、いろんなことが私ひとりに降りかかってきて、精神的にまいってしまいました。

それをなんとかしようと、 この4月に就職しました。
今は子育て、仕事、家事が軌道に乗り始め、人生って楽しいなと感じてきたところで、仕事を辞めたくありません。
しかも腰痛がひどく、一人目の時もなんとか耐えたということもあり、中絶しようと思っています。

でも誰に相談しても「バチが当たるからやめた方がいい」と言われるばかりです。
その産後のことを考えると今から苦しくて前向きにはなれません。
このまま周囲の反対を押し切って中絶手術を受けてもよいでしょうか?
わがままな相談で申し訳ありませんが、何卒よろしくお願い致します。

西光寺です。 大変重大なご相談をいただきました。
あなたの夫のご意見が見当たりませんが、あなたの夫のご意見も「誰に相談しても」の
一人に入っているのでしょうか。
仕事も家事も軌道に乗っているところとのことですが、仕事は辞めなければならないの
ですか。
出産への躊躇は多分一人目の時のいろいろな精神的肉体的な苦痛がトラウマになっているのではないでしょうか。

私の結論を申し上げますと、できるだけ中絶は止めてください。
中絶は絶対だめだとは言いません。
「それは仕方のないことだ」と言える程の理由に当らないと思うからです。

縁あって、宿善あってやっとこの世に人として生まれてくることが認められた命です。
人として生まれてくることがどれほどのものであるのか。あなたのお腹にはそんな大変な奇跡が起ったのです。
命は授かりものです。それにあなたに宿ったからといってもその命はあなたの「もの」ではないのです。

今、そのお子さんが無事に生まれ五年後十年後の元気に育ったかわいい姿を想像してみてください。
あなたや家族の幸せな様子を想像してみてください。
ご参考までに次の話を紹介します。実話ですよ。

数年前ですが40歳台のある女性から伺った話です。
幼いころから厳しかった母親に対していつか気持ちの中に「自分に対してなぜこんなに厳しいのだろう、なぜもっと優しい母親の下に生まれてこなかったのだろう」という思いからいつしか母親に対して嫌悪感を持つようになったそうです。
その気持ちは大人になっても変わらなかったそうです。

そして最近、叔母のある一人から聞いたそうです。
「あなたがお腹に宿ったときにあなたのおかあさんはとても喜んだんだよ。
でもね、そのときちょうど家にいろいろなことがあって中絶を勧められたそうよ。
でもね、あなたのおかあさんは『絶対人に迷惑をかけないから生むんだ』といって頑張ってあなたを生んだんだよ。」

「それからあなたのお母さんは『しっかりした人様に迷惑をかけたりしない子供に育てるんだ』と言っていたから、あなたに対してちょっと厳しい躾になったかもしれないねえ」

そこまで聞いた彼女は涙を抑えることができなかったそうです。
それまでのわだかまりはそのとき吹っ飛んだそうです。
そして自分自身が恥ずかしい気持ちになったそうです。
それから彼女は「自分はおかあさんから命をいただいた」と思うようになったそうです。

そんな母親も最近高齢となり痴呆が進み介護を必要とするようになったそうです。
別居している状態ですが暇があれば母親の元にいってお世話しているそうです。
そしていつもこころの中で感謝しているそうです。「生んでくれてありがとう」と。

あと、ご本人も三人の子供に恵まれたそうですが、子供にも「生まれてきてくれてありがとう」と心から思えるように なったそうです。
そして「この歳にして少しだけ人生観が変わった」と言っていましたが、わたしは「少しだけ」 ではなかったと思えるのです。

人は自分が人として生まれてきた因縁を知ったとき人生観が変わります。
そして感謝の生活を送ることができます。
当山ホームページの「法話」8月分を見てください。
人として生まれてくることがいかに大変なことなのかが書かれています。
参考になればと思います。

合掌      


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  ■平成19年2月13日  東京都 30代女性からのご相談
最近も自殺のニュースがありました。
自ら自分の命を終わらせることが、自分でも身近なことのように感じたり、絶対行ってはいけないような不思議な気がします。
辛いことがあると死ぬことで、すべてがリセットされる気がしたり、親からもらった命を粗末にしてはいけないと思ったりします。
自殺することをどのように考えればいいのでしょうか?
自殺することは仏教ではどのような事なんでしょうか

西光寺住職です。
自殺をどのようにとらえるかというご質問ですが、これは大変大きな問題です。
まず自殺と言っても内容にいろいろあると思います。

武士道の切腹・・・これはおもに主君への忠誠による殉死でしょうか。
心中・・・これは共同自殺ですが、自殺プラス他殺という見方もあります。
とくに親子心中は子供がかわいそうです。親の身勝手な殺人行為と言わざるを得ません。
自爆テロ行為・・・今もイラクでは毎日のように自爆テロが起こっています。
すでに何千人もの人が犠牲になっているとか。

犯人は殉教者のつもりでいるのでしょうが、これは正に自己中心の理論であり絶対に
許されるものではありません。
日本にも神風特攻隊などがありましたが、国のためとはいえ理不尽極まるものです。
しかし、そんな犠牲のもとに今の日本があることも大きな教訓とすべきでしょう。

自決・・・戦国時代から過去の戦争まで実に多くの自決がありましたが、これも
不条理な行為です。
その多くは主君のため、国のための殉死であったわけですが、戦争には必ず
そのような悲劇がともないます。
戦争は人類の続く限り無くなりません。人間の愚かさを実に象徴している行為です。

自殺・・・おもに人間関係、仕事関係、異性関係、金銭関係、病気などによる悩みと
苦しみによるものが原因とされています。
人類永遠の問題ですが特に現代社会が抱えている最も重い辛い問題です。

以上あげてみましたが、自殺には他に原因があるものと、自分自身に原因がある
ものとの二つに分けられるように思います。
ここでは最後にあげた自分自身に起因する「自殺行為」について考えてみました。

私見で言わせていただくと、それは人として最も悲しい残念な行為だということです。
確かに自殺する人は恐らく他人には計り知れない深い悩みや苦しみがあっての
ことでしょう。
そして、最後の最後まで迷った結果の選択なのでしょうが果たして最善の決断と
言えるでしょうか。

私はできるだけ、イヤ絶対に自殺は避けて欲しいものだと思います。
それは「命」に対する「恩」を否定する行為だからです。
ここで誤解の無いように願いたいことは、自殺をされた人達に対する偏見が
けっしてあってはならないということです。

自ら死を選ばずにおれなかったその思いと無念さを斟酌し心からの哀悼と
ご供養をするのが仏の道なのですから。
そのことをまず申し上げて先に進みます。

私たちは「命」を頂いたから生まれてきたのです。
命といっても虫けらから人間までありますが、人間の命は地球よりも重いと
いわれますね。
その意味を考えていただきたいものです。

人間に生まれてくるその確立はなんと無限分の1なのですよ。
そんな奇蹟を頂いて与えられた命なのです。
そんな尊い命を頂いたという「恩」をまず認識すべきなのです。

「自分が頂いたものだからどうしようと勝手」ではないのです。
頂いたと言いましたが、これは実は「預かりもの」なのです。
預かりものですから最後にはお返しするのです。

預かりものである以上さいごまで大切に扱うことで義理が果たせるのです。
最後まで大切に扱うこととは「まっとう」するということです。
つまり命を与えられたその恩に報いることとは、「命のまっとう」なのです。
命を「全うする」ことで頂いた「恩」に報いることができるのです。

ではその恩は誰に頂いたのでしょうか。
それは仏様です。
その仏様とは全宇宙を仏身とするところの法身仏であり、報身仏であり、
化身仏であるのです。

命はすべて仏様から頂いた預かりものだという認識があってこそ命の尊さを
知ることができるのです。
つまり、自分の命は自分のものであって自分のものではないという妙諦を
知るべきなのです。

お返しするものには責任と義務があるのです。
では「命をまっとうする」とはどうゆうことでしょうか。
それは単に「天寿」にとどまりません。
つまり時間の長短ではないということです。
それは与えられた命を完全燃焼するということです。

幕末の天才風雲児坂本龍馬が今でも日本人に絶大な人気を誇っているその理由は、
たった32歳という人生の中で、日本を大きく動かし命を完全燃焼し切ったからです。
そこに命をまっとうしたという感動があるからこそ、彼の命はこれからも多くの人々の
心の中に生き続けることでしょう。
真のヒーローとはそういうものです。

2000年1月東京の新大久保駅ホームで転落した日本人を助けようとして
自らの命を落とした韓国人留学生イン・スヒョンさん26歳の話は今映画化され、
「あなたを忘れない」で再び感動を与えています。
26年という短い生涯でしたが、彼もまた自らの命を顧みない生き様で
命をまっとうしたのです。
「あなたを忘れない」人になっているのです。

これもつい最近のことでした。
東京東武東上線ときわ台駅で、路線に入った女性を助けようとして電車に
はねられたおまわりさんがいましたね。
警視庁板橋署の宮本邦彦巡査部長53歳です。
事故から意識が戻らず、懸命の治療が続けられていましたが、残念ながら
今日(2月12日)亡くなってしまいました。

地域の人たちにとって、実直でほんとうに優しいおまわりさんだったそうです。
交番には毎日のように回復を祈る千羽鶴や花束や手紙が続々と届けられたそうです。
その願いも届かずほんとうに残念なことです。

命を捨てようとした人を自分の命を顧みず助けようとしたのです。
命をかけて命の大切さを教えてくれたのです。
今自分の命に迷われている人がいたら是非今一度命の尊さを考えて欲しいものです。

人生確かに四苦八苦です。
仏教では「一切皆苦」と言っていますが、それは迷いの世界にいることの戒めで
あって、人は誰でも信仰と修行で「涅槃」という「安心(あんじん)」悟りの
世界に入れることを説いているのです。

仏教は実は命をテーマの本題にしているとも言えるのです。
仏祖は常に、命の尊さ、命の本質、命の素晴らしさについて説法しているのです。
人生四苦八苦と言われますがほんとうは人生ってすばらしいものなのですよ、
と教えてくれているのが仏教なのです。

合掌      


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  ■平成18年10月23日  千葉県 30代女性からのご相談
実家に仏壇がありますが、お線香やお茶なども毎日行っていないようで気になります。
私が実家に住んでいるときは毎朝、お茶やご飯の用意、お花を飾ったりしてきました。
今私のすんでいる家には仏壇がありません。
しかし毎日お茶やご飯を供えたいとは思います。
仏壇や位牌はありませんが、行うことは私の独りよがりでしょうか?
もし、仏壇がなくても、線香をあげたり、お茶を用意することで、ご先祖様の供養に
ならないかな・・と思っています。
もし行えるとしたら、お茶を用意する場所や方位など、全く分からないので
教えていただければうれしいです。

こんにちわ西光寺住職です。
仏様やご先祖様への供養の仕方についての御質問ですね。
あなたが今住んでいるところには仏壇が無いとのことですが、具体的な状況が
よくわかりません。
いずれにしろ仏壇が無い状況での御先祖供養ということでお答えします。

結論から申し上げると仏壇は仏様の入れ物ですから有るに越したことはありませんが、
特に無くともかまいません。
それに値段も決して安くはありませんしね。無理することはありません。
それよりも供養の意味を考えますと仏壇よりも中身であるところの御本尊様や
御先祖様の方が大切だと思います。

特に仏教は偶像崇拝の形を重視しますのでその対象としての仏像やお位牌などが
大切でしょう。
つまり仏像やお位牌が仏身であると捉えますので仏壇ではなく仏像やお位牌に
意味があるのです。
まず御本尊様を考えるとしたら 仏像かあるいは掛け軸でしょう。
その場合選ばれるのはあなたの好きな仏様、例えばお釈迦様、阿弥陀様、あるいは
観音様、お地蔵様などその他どれでもよろしいかと思います。

  次に特に御先祖供養を中心にお考えの場合はお位牌だけでもよろしいでしょう。
「〜家先祖代々諸精霊位」と書いてあるお位牌を安置されるのです。
最後に参考として理想としての形を申し上げましょう。
それは御本尊様と御先祖様の両方を安置することです。
これは宗派によって異なりはありません。

仏像や掛け軸はたいていの仏具屋さんにあります。値段もいろいろです。
仏像でしたら1.2万円からあります。3・4万円もすれば特に立派なものがあります。
掛け軸でしたら安いもので数千円からあります。勿論値段次第で立派なものがあります。
あと是非欲しいものがお線香立てと蝋燭立てでしょう。
そしてできればりんがあれば十分でしょう。

お灯明とお線香を上げて、りんを打って合掌すればもうそれでもう満点の御供養です。
さらに考えられるのはあなたのことですからきっとお経をあげたくなると思いますよ。
お経本も仏具屋さんにいけば大抵の宗派のお経があります。
お若いあなたのような方がこのように御先祖供養を心配されているとは
すばらしいことです。

仏様御先祖様を供養する人に悪い人はいません。
あなたもきっとすばらしい人に違いありません。
わたしはそう確信をしています。

最近いじめによる子供の自殺が毎日のようにニュースになっていますね。
いじめは宗教心が無くなってしまった結果起こるのです。
宗教が感謝の心を育むのです。感謝の心が育っていないのです。
核家族化という状況から仏壇のないところで子供が育った結果だと私は捉えています。
(当ホームページ「法話」の8月号9月号で特にそれを訴えていますので観てください。)

ご先祖さまや仏様を拝むことで感謝の心が育つのです。
感謝の世界にいじめの心は絶対存在しないのです。
だから私はあなたのような心を持っている人に正直心より敬意を表します。

繰り返しになりますが、 仏壇や方角などまったく気にする必要はありませんよ。
ご供養する気持ちが大切なのです。
折角の気持ちを充実させるために礼拝の対象としての仏像 もしくはお位牌があれば
十分だというのが私の結論です。

合掌      


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  ■平成18年9月3日  兵庫県 30代女性からのご相談
私には、現在小学4年生と2年生の息子がいます。
2人ともが、今よく話題になっている軽度発達障害児で、自閉傾向もあり、
多動的なところもあります。
そこで、座禅をさせればいくらか落ち着きが出るのでは・・・。と考えるのですが、
そのような子供をお寺が受け入れてくれるだろうか、他の方の迷惑になってはいけないし。など、悩むところも多く、親が思うほどの効果が現れるのかどうかも気になります。
とにかく今は、落ち着きを持たせたくて、座禅という方法に行き着いたのですが、
どのようにお考えになられますか?
よいアドバイスがあれば、お教えいただけるとありがたいです。

こんにちわ西光寺住職です。
お子さんのことでお悩みのようですね。
自閉傾向と多動的傾向とか。
座禅で効果があるかどうかとのことですね。

座禅はすべての人を対象としていますので座禅をすること自体特に問題はありません。
ただ座禅は宗教ですから基本的に信仰心が必要です。
よく集中力を付けたいとか精神的に強くなりたいとかの目的で座禅に見える方がいますが座禅の目的はそのような現世利益ではありません。
そのよう方は決して長続きしません。今までもの多くの例から明らかなことです。

座禅は仏教という宗教ですからまず仏教に帰依する心が無ければ最初からやらない方が
いいでしょう。
座禅とは体と呼吸と心を整え安心(あんじん)の世界を求める修行方法なのです。
安心の世界とは仏の世界のことです。
仏の世界を少しでも理解したいという真心がありさえすれば必ず効果はあります。

信仰心があってこそ効果があるのです。
その効果としての落ち着きや精神力は期待できるとおもいますが、はじめから単に精神力や落ち着きを求めるためだけならば何か特に厳しいスポーツでもさせた方がずうっと効果があると思いますよ。

座禅での効果とは「修行の行事そのもの」を言います。
そこのところ理解できますか?
座禅そのものがすでに「効果」だと捉えるのです。
専門用語で言えば「修証一如」ということです。ちょっと難しいかもしれませんね。

もうちょっとわかり易く言えば、落ち着きのないお子さんも座禅中は落ち着いているでしょうということです。
だから座れば座っただけ効果があるということになるのです。
ただ小さな子供さんにとっては続けることは大変難しいことだと思います。
ですからもし本気で座禅を考えるとしたらまず信仰心の力が必要なのです。

心に仏様を信じることから入らなければなりません。
そこで更に重要なことは、子供さん自身の問題よりも親であるあなた自身の問題として
考えなければならないということです。
なぜなら親が信じないものを子供に信じさせることはできないからです。

子供さんだけに座禅をさせるのではなくあなた自身も一緒になってやらなければ意味が
ないということです。
小さい子供さんは親を全幅的に信頼しています。だからあとはあなた次第ということに
なるのです。

子供さんは吸収が早いので信仰心が生まれれば必ず心と体が落ち着いてくると思います。
まずはあなた自身が仏、法、僧の三宝を信じることから始まります。
如何でしょう。

合掌      


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  ■平成18年7月20日  愛知県 女性からのご相談
このまえ他界した祖父にもう一度会いたいんです。どうしても会 いたいんです。

他界されたおじいさんに是非もう一度お会いしたいとのことですね。
あなたにとって大切なすばらしいおじいさんだったんですね。
亡くなった時のショックはさぞ大変なものだったとおもいます。

人はいつかは寿命が尽きて亡くなるとは分かっています。
いつかはお別れしなければならないことは分かっています。
理屈ではよく分かっていますが、愛する人が亡くなってみてはじめてその現実を
「体験」するのです。

今まで考えてもみなかった大きな試練です。
そのショックと悲しみで一時生活が狂ってしまう人もいます。
中には喪失感で心理的療養を受けなければならない人もいます。

人生で最大の「問題」は「死」です。
自分自身の「死」が一番で、次が愛する人の「死」です。
しかしときには自分自身のこと以上に愛する人の死を受け止めてしまうことも
よくあることです。

その人の居ない人生なんて考えられなくなってしまうのです。
生きる希望と生き甲斐をなくしてしまうことです。それは本当の不幸です。
その悲しみと辛さは本人しかわかりません。
しかしそういった試練を乗り越えていくのもまた人生なのです。

あなたにもこの試練を是非乗り越えて一段と逞しくなって欲しいと思います。
私の話が少しでもそんなあなたの参考になればと願っています。
さて、あなたの願いである「おじいさんに会えるかしら」のご質問ですが、
結論から申し上げて「会える」のです。間違えなく会えます。

ただそれを科学的に証明することは難しいので、宗教として「信じて」いただく
しかありません。
(もっとも私の持論で言えば科学的でも何でもなく『会える』のですが、
ここでは 理屈っぽくなるので申しません)

まず「会える」と言う意味を考えてみましょう。
亡くなるということは肉体の消滅ですから
亡くなってしまった以上「現物」のその人に会うことはできません。

あとはその故人の「魂」の問題です。
まずその魂が「ほとけさま」になったと信じることです。
その仏様に会う方法がすなわち「供養」なのです。
ですからその「供養」の意味をしっかり捉え理解することにあるのです。

まず亡くなった人に対しての最高の供養とは何でしょう。
献花、献灯、供物、読経、回向、焼香などいろいろございますが、一番のご供養は
亡くなった方の人生を真似ることです。
優しかった、親切だった、明るかった、気配りが上手だった、気品があったなどなど、
挙げればキリがないかも知れません。

あなたにしか分からないすばらしい点もあったでしょう。
そんなすばらしい故人の生き方、考え方の中から一つでも二つでも(多いほど結構なことですが)あなた自身のこれからの人生の中に是非採り入れていっていただくきたいと思うのです。

それはこれからのあなたの人生の「糧」になる筈です。
それは糧になるばかりではありません。
故人があなたの心の中に生きている意味になるのです。
少し難しいかも知れませんがこの点が重要なのです。

亡くなると涅槃の世界に入ります。
それは一切が一つの世界であるという空の世界ですから、そこは生も死もありません。
般若心経にも「不生不滅」と説かれています。
空間を超越していますからあなたと故人は一緒の世界になるのです。

それはあなた自身には自覚は無いと思いますがおじいさんは確実にあなたの中で生きているということの意味です。
人は「想う」ことによって生前以上に「一体」になれる世界が「涅槃」の世界なのです。
その一体感は故人を「想い」、「真似る」ことで一層確実なものになります。

次に故人の見地から考えてみましょう。
おじいさんは自分の孫や子がそんな自分を真似ていことを知ったらどうでしょう。
絶対に嬉しいですよね。
よく「学ぶ」という言葉は「真似る」という言葉から来ていると言われています。

我々お坊さんはお釈迦様、仏様の真似をして「修行」するのです。
お釈迦様の生き方と考え方に全幅の信頼を置いているからです。
お釈迦様の発見された真実の世界の「法則」を学んで少しでも自分の人生を豊かにさせていただき、さらにその御教えを多くの方に伝えたいと願っているのです。

子供は親や学校の先生を観て「真似」て「学んで」いるのです。
あなたに愛されたおじいさんはあなたのすばらしい「先生」だったのです。
イヤ、これからも先生で居続けるのです。
これからはれっきとした仏様とした「先生」なのです。

仏様に対する最高のご供養とは仏様の「真似」をすることなのです。
その内容が書いてあるのが「お経」です。
お経を読むのはお坊さんだけの特権ではないのです。
読経とは、仏前で仏様の説かれた教えを復唱し、御教えに従い、「私たちも幸せになります。どうぞご安心ください」とお誓いするのがすなわち「法事」なのです。

私事ですが、わたしは法事の時にはできるだけお経本を配り一緒に読経していただくことにしています。
仏様はその姿をみて安心するのです。
仏様が一番「心配」されているのは子孫、衆生のしあわせなのですから。

ですから仏様ご先祖様を安心させるのが「法事」であり「供養」なのです。
仏様の安心があってこそ我々の「幸福」があるのです。
仏教の真実の世界とは「生」と「死」を超えた世界なのです。
その世界を「涅槃」と言います。

あなたのおじいさんは今その涅槃の世界で確実に「生きて」いますよ。
あなたも将来いつかは確実にその涅槃の世界に往くわけです。
その再会の時、おじいさんから「よくよく供養をしてくれてどうもありがとう」と
言われるかもしれません。
「おじいさんこそ私にすばらしい人生を教えてくださってありがとう」と感謝の言える
生を送りましょう。

自分にほんとうに愛すべき人のいたことを。
愛すべきその人と共に生きられたことを。
その人のために悲しめたことを。
いつか、全て「感謝」の気持ちでうけとめられる日がくることを願っています。

合掌      


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  ■平成18年3月6日  男性からのご相談
疑問(1)
なぜ、何のために人は生きるのでしょうか?生きる目的・生きる価値・生きる意味とは何でしょうか?

疑問(2)
どのように、いかに生きたらいいでしょうか?

疑問(3)
死んだらどうなるのでしょうか?死後の世界、魂、輪廻はあるのでしょうか? 信仰心が無いのであの世を信じることができません

疑問(1)のお答え
あなたのまわりに何か花は咲いていませんか?
もし露地にでもなにか花を見つけたらよ〜く観てみてください。
何の花でもいいでしょう。
今の季節ですと野水仙がほのかな香りを漂わせていますね。
水仙は最も寒い季節に咲く花でしょうか。気品のある水仙の香りをわたしは好きです。
特にこの房州はこれからたくさんの水仙が咲き始めるところです。

さて、前置きが長くなりました。
たとえば、その野に咲く一本の水仙の花に「あなたは何の目的で咲いているのですか?」と聞いてみてください。
「あなたの今咲いている価値と意味は何ですか?」と聞いてみてください。

冗談で言っているのではありません。
その水仙は完璧に答えてくれていますよ。
どう答えているかって?それをあなたに是非感じとって欲しいのです。
そこに答えが如実に歴然と現れています。

水仙は誰かに見てもらいたくて咲いているのではありません。
咲く意味とか、目的とか、価値とか水仙は考えてもいません。
ただ咲いているのです。ただただ咲いているのです。 おわかりですか?
「人と花を一緒にするなよ。」という声が聞こえそうですね。

でもわたしの答えはその「一緒」の世界なんです。
あの山も、この草もあの木も、そしてあの鳥もあの犬もそれぞれが完璧に
「存在」意義を示しています。
人間も同じなんです。まったく同じなんです。


疑問(2)のお答え
この答えも上と同じです。
一本の瑞々しい水仙の花はどう咲いたらいいのかとか考えていますか?
「もっと背が高く、もっと花びらを大きく、もっときれいに咲かなくちゃいけない」とか
水仙の花が考えていますか?

その水仙の花はただただ咲いているのです。今のままでそのままで完全なんです。
何が不足なんでしょうか。これ以上一体何が必要なんでしょうか。
今のそのままで完璧じゃありませんか。
その一輪の水仙の花とあなたと何が違うのでしょうか。これが答えです。


疑問(3)のお答え
お釈迦様が真実を悟られたといいますね。真実とは事実なんです。
それが事実である以上そこには「法則」があるのです。
事実の法則ですからそれは絶対です。それを仏法と言います。
人類の発見した科学や化学の法則も真実の法則ですが、それらは全て証明することができます。
証明できなければ「法則」とは言われませんね。

しかし、お釈迦様の発見された法則は科学的にも化学的にも証明が難しいのです。
証明が困難であるということは説明が難しいということなのです。
それでもお釈迦さまや悟られたその多くの弟子たちがなんとかして
その法則を知らしめようとして八万四千の経文が説かれたのです。
しかしその法則を本当に理解するためには本人が「悟る」ことが一番なのです。

そのために理屈抜きに「修行」がなされてきたのです。
例えばバナナを食べたことの無い人にいくら説明してもその味を完全に
理解させることはできません。
その味は食べた人だけに解るのです。
自分でガブリと食べてみてはじめてその「味」が百パーセントわかるのです。

その味の中身が悟りであり「仏法」なのです。
その法則のなかに「魂」や「過去世」や「来世」があり、そして「今」があるのです。
難しいでしょうか。
何も無いところから何も生まれませんね。化学的にもそうですね。仏法でもそうです。

だからあなたは生まれてくる前には何処かに居たのです。
だからこれから死んでもどこかに行くのです。
そういうと魂の存在を意識しますが魂だけが残って輪廻転生するなどということはありません。肉体と魂は一体なんです。

といって肉体が滅びると言いますが、実は形を変えるだけであって
その肉体の本質と質量が無くなってしまうわけではないのです。
魂も肉体も一つのものであるからその魂も同じことなのです。
その肉体と魂の問題が解決すれば同時に「地獄」「極楽」の問題も解決します。

疑問(1) の水仙の魂は何処にありますか?
その水仙の魂がわかったときにかなり問題は解決されると思いますよ。
仏教を信仰するということは、何も無理矢理「仏を信じる」ということではないのです。
仏法を理解していく結果自然と「信仰心」がついてくるのです。

仏教は「化学」であり「科学」であるのです。しかも「超化学」「超科学」なのです。
それがわかったからわたしは信仰しているのです。
そして今生きていることのすばらしさ、かけがえのなさがわかってくるのです。

合掌      

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はじめに葬式仏教からの回帰仏教とはお経とはお寺とは坊さんとはかけこみ寺

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