千葉県南房総館山市にある曹洞宗のお寺です。水子供養・永代供養・ご祈祷などのお申し込みは当山まで。坐禅体験もあり。

曹洞宗 正木山西光寺

曹洞宗 正木山西光寺

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法話

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餓鬼って何?誰? -- 平成17年4月

たいていのお寺では宗派に関係なく施餓鬼(せがき)会(え)あるいは施食会(せじきえ)と言った行事を行っています。各お寺にとっての年中行事の中の最大の行事となっています。
うちのお寺でも勿論やっていますが、お施餓鬼を中心に一年が動いていると言っても過言ではありません。

お寺の本堂のことを「道場」と申します。
それは仏道の修行の場という意味です。
よく道場と言うと、剣道や柔道などの武道の道場を意味しますが、その由来は仏教の本堂が本家なのです。

今日のような施食会のほかに、お正月やお盆、お彼岸などにもお寺にお参りされますね。
特に本堂は仏道の場だけに普段とは違ったやや緊張した敬虔な気持ちになるものです。
それはご本尊さまをはじめ多くの仏様に見つめられているという気持ちからでしょう。

ですから皆様は本堂にお入りになって法要行事に参加された以上是非何かを持ち帰って下さい。
「何か」と言っても形のあるものはダメですよ。
本堂には色いろ高価なものがありますので形のあるものはダメです…冗談ですよ。
「何か」といっても、それは精神です。
形のない精神、つまり仏教の教えを是非何か一つでも持ち帰って頂きたいのです。

帰る時には教えの何かをお持ち帰りになる。
でも来るときは別ですよ。来るときは「形のあるもの」をお忘れになりませんように。
そう、言わなくても分かりますね。
重いモノよりも軽いモノの方が有り難いのですね…冗談ですよ。

冗談はさしおいて、では、形のない餓鬼についてのお話をしましょう。
ご承知のとおり地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の世界を六道と言います。
仏界に至らない迷いの世界のことです。
その中の餓鬼道は下から2番目の世界で、特に欲得に溺れた者が堕ちている世界とされています。

本堂の正面に供養棚を設置し多くの僧侶の読経の下、飢渇の餓鬼達を集め、種々無量の食べ物を与えその飢えを満たせてあげます。
陀羅尼のお経があってはじめて食べ物が飢渇の喉を通るのです。
われわれの目には見えないけれどそこには無数の餓鬼が集まっているとされるのです。
貪欲、渇愛に溺れ成仏できない有縁無縁の餓鬼達に、気の毒に…可哀そうに…との思いも俄かに湧いてくる気さえしてまいります。
目に見えない哀れな餓鬼ども…。

しかし、そこには目に見えないそれら多くの餓鬼の他に実は多くの目に見える餓鬼が集まっているのですよ。
それは一体誰でしょうか?
それはそこに集まっているすべての施主の人達のことなのです。
まちがいなくあなた方もそのうちの一人なのです!
どうです、驚きでしょう。ショックですか?

まさかねえー。自分が餓鬼などとはこれまで思ったことも無かったし、言われたこともありません。しかしちょっと失礼千万だよねえ… などと思っておられるかも知れませんね。
でも、実際に本当の餓鬼があなたの心の中に住んでいるのです。
いや間違いなく全ての人の心の中に住んでいると言ってもいいでしょう。
ただ人によって餓鬼の程度もまちまちで、比較的おとなしい餓鬼から、ひどい餓鬼になるとその人自身の破滅をもたらすこともよくあるのです。

餓鬼の正体、それは、物欲や名誉欲からくるところの欲そのものなのです。
欲の無い人っていませんものねえ。ただ問題はその程度なのです。
小欲のうちはよろしいが油断するととんでもない貪欲・渇愛に満ちた立派?な餓鬼になるのです。
そのせいで大きな問題を起こしたり、事件を起こしたりすることにもなりなねません。
(一時世界一の大金持ちになったそうですが、その欲得がとどまるところ知らず、今拘置所に入っている人がいますね。文字通り餓鬼道に堕ちてしまっているのです。)

ではどうすればその貪欲餓鬼を諌めることができるのでしょうか。
それにはただ一つ「布施」をすることです。
布施とは見返りを一切求めない純粋な慈愛の行為のことです。
苦しんでいる者や有縁無縁の餓鬼に布施することが自分の中の餓鬼心を仏心に変えていく最も効果的な行為とされています。
お寺の施餓鬼会法要に参加するということは、つまり施食棚の餓鬼に「布施」することであり、同時に自分の中の餓鬼にも供養していることになるのです。

餓鬼も修羅も畜生もそして地獄も仏も全て我がこの身の内に宿っていることを自覚することが肝心なのです。
まさに、「仏道をならふというは、自己をならふなり」です。

その布施の功徳をご先祖さまに向けるから「回向」と言います。
「回向」とは回して向けると書きますね。
つまり仏様に向けた功徳がまた巡り巡って自分に返ってくることにもなるということです。
そのための法要が「施餓鬼会」なのです。

今では「施食」と言うようになってしまいましたが、法要の意味は餓鬼に施すことであり、餓鬼とは欲に飢えて迷っている者のことであり、特に人間である以上、誰でも心のなかには、地獄から仏様までが宿っていることを自覚することがだいじです。

誤解のないように最後にもう一度申しあげますが、ご先祖様が餓鬼ではなく、餓鬼道に堕ちている救われない者を布施する功徳を皆さま方のそれぞれのご先祖様に回向するのが施餓鬼会の意味なのです。

毎年同じように修行される施食会の法要ですが、毎年飽きないのはなぜでしょうか。
それは宗教行事だからです。
毎朝お仏壇のご先祖様にお灯明やお線香を手向けることが飽きないのと同じです。

大震災に遭われた子供が言っていました。
毎日普通に当たり前だと思っていたものこそ幸せだったことがわかりましたと。
毎朝仏様ご先祖様にごあいさつできることこそがほんとうは最高の幸せだったのです。

毎年この日当山でも施食会に参加できることが幸せなのです。
年中行事で日にちが決まっています。
そんな報恩感謝の施食会に参加できないことは何か特別なことが起きたことになります。
それが悪いことであってはなりません。

来年のことをいうと鬼が笑うと言いますが、良いことをいうと仏が笑うのです。
来年の施食には又是非お会いしましょう。
「お会いする」と言ってあの施食棚の上からではダメですよ。
是非健康に気を付けてお過ごしください。

合掌

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