千葉県南房総館山市にある曹洞宗のお寺です。水子供養・永代供養・ご祈祷などのお申し込みは当山まで。坐禅体験もあり。

曹洞宗 正木山西光寺

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法話

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日々是好日--「今」がすべて -- 平成18年6月

「日日是好日」(にちにちこれこうにち) 今回はこの有名な禅語をとりあげてみました。
このことばの書かれた掛け軸などを床の間や茶室などでよく見かけます。
この意味するところは、日というものに良し悪しは無いということです。

毎日毎日が好い日であるということです。
実に明解なことばですね。
しかし一見明解なものほど奥が深いのですよ。
「日」によって特段違いはありませんがまずよく言われるのがお天気との関係です。

大抵の場合晴れて「好い日」とされています。
確かに折角予定された行事が雨天のために延期や中止になることはよくあることです。
折角の予定が狂ったり、何をするにしても不便を感じますので、「雨天は好くない日」と言うのもわかります。

しかし、ここでちょっと気になることがあります。
「あなたの普段の行いが善いから今日は晴れて好い日になりましたね」とかよく言ったりしますね。
社交辞令や相手の徳を持ち上げたりする気持ちから出る言葉です。

確かに個人的な気安い会話の中でのことばとしてはご愛嬌でよろしいのですが、大衆を面前にした公的な挨拶などの場合いささか疑問に思うのです。
それは、その日たまたま晴れたからといっても、問題はそのことばを聞いた人の中には過去において大切な行事を大雨に見舞われたという人もきっといる筈なのです。

その人にとっては「あのときの大雨はあなたのせいだ」と間接的に言われているようなものです。
確かにどんな行事を行うにしても一般的にも晴れた方が喜ばれますね。
それは大抵の場合都合が良いからです。

でも都合は人によってそれぞれ違いますので晴れて喜ぶ人もいれば、中には雨で喜ぶ人もいるということを知るべきです。
お天気はその人のその日の都合次第で好い日にもなり悪い日にもなるということです。
余談ですが、よく「晴れ男」とか「雨男」とか言いますが、一生の内での確率はほぼ50パーセントだそうです。

また、もし毎日毎日お天道さまが出ていたら砂漠になってしまいますし、また、毎日毎日雨ばっかりだったら物は腐るし土砂崩れや洪水などの災害も起きてきます。
雨の日、晴れの日、風の日などがあってバランスが保たれているのです。
地球は自分の環境のバランスを保つために気候や天候を変えているのです。
地球も生きているのですから。

要は、晴れて好し。雨で好し。風で好し。
その日その日はそれ自体完璧な現状だということです。
天候状態に優劣はありません。
因果の法則に従ってただただ変化しているだけのことです。

それにしても最近の地球は環境悪化のせいか異常気象が見られるようです。
とくに世界的に砂漠化が進んでいるとか。
実際日本でも平均年間降雨率も年々下がってきているそうです。
雨も恵みの雨だと思うとありがたく感じられるものです。

その「天候」は目に見えるものですが、目に見えないもので「その日」を区別するものもあります。
まず日本には「六曜」(ろくよう)というものがあります。
その日の吉凶を表すものとされています。

「今日は仏滅だから」とか「明日は大安だから」などと言って行事の判断にしたりします。
とくに仏教に関するものに仏滅と友引がありますが、実はこのふたつとも元々は仏教に関係なかったそうです。

「物滅」であったものが「仏滅」になり、また友引は「吉と凶が勝負し共に引き分け」といった意味だそうです。
今日では「友引」は「あの世に友を引く」というような意味合いから友引には葬儀は致しません。

元の意味がどうであれそれが現在の社会通念となってしまっている以上、それに従うことが文化なのです。
その「文化」の基になっているのが「暦」です。
その暦に従ってすべての年中行事が決まります。

お正月、節分、立春、ひなまつり、端午、立夏、入梅、七夕、お盆、立秋、十五夜、彼岸、七五三などなど、あげれば切りがありません。
それらは生活の指針として無くてはならないものです。
人が生活の中に「けじめの意味づけ」として編み出した知恵なのです。

暦だけではありません。
1日24時間の「時間」も同じように「けじめの意味づけ」のために人が発明したものです。
発見ではありません発明です。念のため。

ちょっと想像してみてください。
仮にあなたが現在何月の何日の何時であるのか認識できない状態のまま何日も過ごすとしたらどうなると思いますか。
意識のない昏睡の状態でない限り多分あなたは情緒不安になり、それが長時間続けばストレスとなり精神に異変を来すかもしれません。

季節や雑節、年中行事や月日、時間の認識で日常生活に「けじめの意味づけ」がなされ、気持ちが安定するのです。
これを「文化的生活」といいます。
犬や猫に季節や曜日、時間の認識はありません。

それは彼らには「文化」が無いからです。
(しかしこのごろ中には人間様と同じような贅沢な「文化的生活」をしている犬や猫が沢山います。将来「文化」を身につけ時間を気にする犬や猫が出てくるかもしれませんね・・・冗談ですけど)

さて、ここで私が何が言いたいかと申しますと、人はすべてに於いてさまざまな「尺度」の中で生きているということです。
先にあげた暦も行事も時間も全て文化的生活を送るための「尺度」なのです。
人は生活の全てに於いてさまざまな尺度に従い尺度を通して生活にけじめをつけ、気持ちをコントロールすることで「安心」できるのです。

尺度がなければ人間生活は成り立たないと云ってもよいでしょう。
尺度こそ人類が合理的に生きていくために編み出した最高の叡智であり「文化」なのです。
そして次に私が言いたいことは、実はこの「尺度」こそ要注意だということです。

尺度とはすべて人が便宜上作った「発明品」だからです。
発見ではなく発明です。(ここでも念のため) 春夏秋冬の季節も、元旦、お盆、大晦日などの雑節も、大安、仏滅、先勝などの「六曜」も、月曜、火曜、水曜などの曜日もすべて「尺度」です。

「何時何分」という時間も尺度です。
その尺度の「本質」をしっかり理解することが大事なのです。
その尺度に実態は無いのです。有るのは「今」だけです。
これを「而今」(にこん)と言います。
どんな日であれどんな時間であれ、有るのは「今」だけでその本質は「虚空」なのです。

「日日是好日」 この言葉は禅の古則「碧巖録」(へきがんろく)第六則にある公案(問答)なのです。
その「今」の本質を悟ることがこの公案(問答)のねらいなのです。

[本則]
挙す、雲門垂語して云く、
「十五日已前は汝に問わず、十五日已後、一句を道い将ち来られ」
自ら代わって云く、「日日是好日」

雲門は公案を挙げて、教示していう。
「今までの十五日間のことは問うまい。これからの十五日間で一番大切だと考えたことを一言でいえ」
雲門自らがいう。 「日日是好日」

「これからの十五日間の修行で一番大事だと考えることを云え」との問いに雲門自らが答えます。
一番大切な事は「今の今」だというのです。
今という時間は今しか無い。人は今に生きているのだ。

今という時間と自分は別物ではない。今が自分であり、自分が今なのだ。
今の本質は自分であり、自分の本質は今である。
つまり時間と自分は別のものではないということ。
道元禅師は正法眼蔵「有時」(うじ)の巻で、こう云っております。

「あらゆる世界のあらゆる存在は、連続する時々である。
山も時である。海も時である。
時にあらざれば、山も海もあることはできない。
山や海の『いま』に時はないと思ってはならぬ。
時がもしなくなれば、山海もなくなる」
「ある草木も、ある現象も、みな時である。
そして、それぞれの時に、すべての存在、すべての世界がこめられているのである」

つまりここでは、存在と時間は一体のものであると云っています。
あなたは「時間は万物に対して常に一定の速度で流れている」といった観念をもっていませんか? 禅師はそうではないと云っているのです。

「松も時であり、竹も時である。時は飛び去るとのみ心得てはならない。
飛び去るのが時の性質とのみ学んではならない」と云っております。

さらに「尽力経歴する」と云っています。
その意味は、存在するその物にはそれぞれのエネルギーがあり、エネルギーが使われるところに「時」が進むと云うのです。
以上、存在(空間)と時間は一体のものであり、エネルギーによって時間の速度が違うということは空間は一定では無いということになります。

このことから思いつくのはまさにアインシュタインの相対性理論です。
正直わたしは素人でよくわかりませんがひょっとして全く同じ理論ではないでしょうか。
実に驚くべきことです。
もし専門家の方がいましたら是非ご意見をたまわりたいと存じます。

どうですか。仏法はやはり私の持論とするところの「超科学」ではないでしょうか。
今回は少し難しい内容になってしまいましたが、結論としてはつまり「日日是好日」とは、「今」が「あなた自身」であるから「今」こそ全てであり、「今」ほど大切なものは無いということなのです。

合掌

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