千葉県南房総館山市にある曹洞宗のお寺です。水子供養・永代供養・ご祈祷などのお申し込みは当山まで。坐禅体験もあり。

曹洞宗 正木山西光寺

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法話

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隻手音声(せきしゅおんじょう)― 分別を断ち切れ ― 平成18年7月

先月に続いて公案(問答)をとりあげました。

拍手するように両手を打つとポンと音がします。
その片手だけの音声を聞けという公案です。
片手だけの音を聞けというのは常識的な思慮分別ではまったく理解できません。
それにしても何故こんな公案があるのでしょう。
その意図するところはなんでしょうか。それが今回のテーマです。

前回は「尺度」について講釈しました。
尺度は人が人として合理的文化的生活を送るために「発明」したすばらしいものですが、それがあまりにも常識的であるためにその「分別」の範疇から抜け出せないのです。
その尺度と並んで同じように人が惑わされているもう一つのものがあります。

それが「差別」です。
ここで言う差別とは物に対しての区別意識、つまり「対立観念」を意味します。
この差別観も尺度観と同じで人が当たり前に持っている大事な分別です。
申すまでもなく、「分別」とは善悪や道理をわきまえるのに人が持つべき最も大切な理性です。

人が人として生きていく上での絶対不可欠のものであり、この分別があってこそ人間社会は成り立っているのです。
分別が無くなったらそれこそ動物や虫けらの世界と同じになってしまいます。
しかし、しかしですよ。
禅はそんな最も大切とされる「分別意識」こそ問題だと捉えるのです。

それはすなわち人が便宜上作り上げた「架空のもの」だからです。
架空のものには実体がありません。
実体の無いものに尺度や差別をつけて「分別」にしているのです。
人は常識であればあるほど、その「実体の無い観念」に捕らわれ雁字搦めに縛られ、振り回されているのです。

そこに「こだわり」の意識が生じ悩んだり苦しんだりするのです。
これを「迷い」と言います。
禅の目的は只一つこの「迷い」の元を断つことにあるのです。
その「迷い」の元こそ「分別」なのです。実体の無いものは「妄想」なのです。

その「分別妄想」を打ち破り真実の世界を悟るために考案されたのが、この「公案」という手法なのです。
公案の目的はただ一つその「分別妄想」からの解放なのです。
その公案には古則公案と現成公案の二種類があります。

古則公案は参禅して老師から与えられる「問題」であり、約一千七百則と言われています。
その出所は「景徳伝灯録」や祖録と言われる「無門関」「碧巖録」「従容録」などです。
一方「現成公案」とはまさに現実世界の存在と現象そのまますべてを「公案」だと捉えるものです。

仏道をならふといふは、自己をならふ也。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。「正法眼蔵(現成公案)」

道元禅師のあまりにも有名な言葉ですが、後ろの方の「万法に証せらるる」とは「悟る」ということです。
それには「自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」と申されています。
「自己の身心」とは自分自身であり、「他己の身心」とは自分以外のすべての「存在」を指します。

すなわち「悟り」とは「自分と自分以外のすべての存在から一切の『分別』を捨て去ることだ」と明言されているのです。
臨済宗の看話禅とか曹洞宗の黙照禅とか区別されていますが、そもそも禅の本質に違いはないのです。

黙照禅はただボーと坐っているのが只管打坐(しかんたざ)ではありません。
「現成公案」に向き合うことでなければ意味がないのです。
禅は公案を命題とすべきなのです。

さて、また能書きが長くなりましたが、本題の「隻手の音声」の公案に戻りましょう。
この公案を創唱したのは日本の臨済宗中興の祖とされる白隠慧鶴(はくいんえかく)禅師です。
白隠は江戸中期の人で禅を独創的に発展大衆化させた方と言われています。

片手の音声を聞けというのは、それまで当然と思っていた思慮分別を根本から疑わせて、理屈や言葉を超えたものと対峙することになります。
その対峙の中から、これまでの思考や想念や感覚を払い去って、忽然として大自由を感得し、すべての迷いから解放されることにあるのです。
この公案は中国の禅匠たちのそれと比べても遜色はありません。

白隠は、この「隻手音声」の公案は、「無」字や「本来の面目」といった公案を突きつけるよりも、はるかに効果があると述べています。
ではこの「片手だけの音」はどうすれば聞くことができるのでしょう。
それを私なりの浅見識で述べてみましょう。(真剣ですよ)

公案のねらいはズバリ「迷い」の根元である「分別」を断ち切ることにあると言いましたね。
故伴鉄牛老師がよく提唱で申されていました。
「凡夫は皆『分別』という色眼鏡で物を見ているから分からないのだ」と。
この言葉が忘れられません。

般若心経にあります、不生不滅。不垢不浄。不増不減。無眼耳鼻舌身意。の意味は一切の対立観念の無い完全無分別の世界を言っているのです。
物を見るのは「眼」で、音を聞くのは「耳」で、臭いを嗅ぐのは「鼻」で、味覚は「舌」で、暑いとか寒いとかは「身」で感じるといったこの常識観念はすべて「分別妄想」なのです。

この公案のキーは、まず「片手の音」という「分別」に有ります。
凡夫は「物」を見るのは「眼」で、「音」を聞くのは「耳」だと思い込んでいるのです。
いいですか。この「思い込み」が「妄想」なのです。

「手」と「音」を区別しているからです。
「手」と「音」の区別は一体何処にありますか?説明はそれで十分です。
本来公案を「説明」するなんてナンセンスなのです。
公案は体現するものなのですから。

では今一度自分で両手を打ってみてください。
次にこんどは片手だけを打ってみてください。
どうですか。聞こえましたか?両手と片手を差別しなければ「音」ははっきり聞こえるはずです。

合掌

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