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法話
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因縁(その1)― 理論は仏道で智慧となる ―   --平成19年4月--

「因縁」・・・だれでも知っている言葉ですね。
しかしこの「因縁」こそ仏教の最も基本となる仏説なのです。
因縁とはすべての現象が相互に、瞬時に、多次元に連鎖する、無常のありさまを
説いたものです。
この世のほんとうの姿を説いたものであり、因果とも縁起ともいいます。

「この世の中で、因果関係で説明できないものは何一つない。だからすべての
ことは因縁を理解しなければならない」というのが仏教の考え方なのです。
ですから因縁説を理解することが仏教を学ぶことになるのです。

阿難尊者はお釈迦さまの侍者としてもっとも身近に仕えた方です。
記憶力抜群でお釈迦さまの説法を全て覚えていたとも言われた方です。
その阿難尊者があるときお釈迦さまに言いました。
「因縁の教えがむずかしいのは確かですが、自分にはむずかしくありません。」と。

それに対してお釈迦さまは「あなたはまだそういうことは言ってはいけない。
因縁説は悟りの智慧ですから、簡単だなんて言ってはいけません。」と
諭されたそうです。
それはその時点では阿難尊者はまだお悟りを開かれていなかったからです。
阿難尊者は因縁をただ「理論」として理解していたからつい簡単だと思ったのでしょう。

お釈迦さまはさらに、「因縁説は悟りの智慧だからほんとうに理解するのは
簡単ではない。因縁がわからないからこそ、人間は輪廻の中で生まれたり死んだりして、無限にいろいろな苦しみを味わっているのだ。輪廻の中で無限に苦しむのは、
因縁を悟りの体験として理解していないからなのだ」と述べられています。

ここで注目したいのは「因縁を悟りの体験として理解していないから」という言葉です。
お釈迦さまは「因縁」は悟りの体験があってはじめて「理論」を超えて「智慧」に
なるのだと申されているのです。
というわけで、今回はこの「因縁」について「理論」を超えた悟りの「智慧」に
するにはどうすべきかを考えてみました。

「因縁」つまり「原因があって結果がある」という理論は理論としては大変
わかりやすいものです。
この理論には、基本になる四つの方程式があります。
AがあるからBがある。
AがないからBもない。
Aが生まれるとBが生まれる。
AがなくなるとBもなくなる。

つまり、何事も「原因があって結果がある」ということです。
「原因の無い結果はない」し「結果の無い原因はない」ということです。
そして原因と結果の間をとりもつのが「縁」です。

その例でよく言われるのが、「種」(因)と「実」(果)の関係です。
どんな種でも水や太陽や肥やしが無くては花が咲き実が生りません。
その結実までに必要な条件を「縁」といいます。いたって単純明快な理論ですね。

しかしこの一見単純明快な理論が実はなかなか難しいのです。
たしかに「原因があり縁をとおして結果がある」という理屈はだれにでも容易に
理解できます。
しかし、お釈迦さまは「因縁」をほんとうに理解するには、すべての煩悩を
捨て去ったときに現れる悟りの智慧が必要であるというのです。
理論上の理解と悟りの智慧からの理解とではそこに海と山ほどの差があるというのです。

もう少し噛み砕いてみましょう。
「人は善い事をすれば善い結果に恵まれ、悪いことをすれば悪い結果に見舞われる。
だから人は皆善い事をすべきである」というのは実に分かり易い因果説の一例でよく言われることです。

しかし、これは「理論」なのです。理論は理論である以上決して理論の域を出ません。
「理論」には、「必ずしもそうとは限らない」という懐疑の余地があるのです。
さらに、自分の都合や欲で理論の解釈はいくらでも変わってしまうのです。
みてください。 世の中の悪事の原因のすべては自分勝手の理屈の結果なのです。
「自分に限ってバレルことはない。絶対大丈夫だ。」と高をくくってしまうのです。

つまり「理論」である以上それは「ひとごと」であり「自分のこと」ではないのです。
さらに理論である以上それを信じても信じなくとも個人の自由なのです。
しかし、「智慧」となると違います。「信じるしかない」のです。
なぜならそれは宇宙絶対の法則であり「真理」だと確信するからです。
そこに疑念の余地はありません。
確信が信念になり信仰になるのです。

さらに言えば「理論」とは「絵に描いた餅」です。
絵に描いた餅の味は想像することしかできませんし、絶対に本物の味を味わう
ことはできません。
本物の味は本物を食べるしかないのです。

これと同じように、ほんとうの因縁の味は悟りの智慧があってこそほんとうに
味わえるのです。
つまり理論上の理解と智慧による理解には雲泥の差があるというわけです。

お釈迦さまが、「因縁がわからないからこそ、人間は輪廻の中で生まれたり死んだり
して、無限にいろいろな苦しみを味わっているのだ。」と申されていることは、
ほんとうの「因縁」が理解されない限り「一切皆苦」というこの世の現実から
解放されることはないということです。

確かに、仏教はお釈迦さまのお悟りの智慧から生まれた理論であり、
それは人々が幸福になるための叡智が詰まった人類最高のテキストなのです。
でもテキストである以上やはり理論の時限なのです。
ですからこれらを「智慧の時限」にしなければならないのです。
ではどうしたらよいのでしょうか。

幸福になる秘訣が説かれているテキストですから見るだけでも眺めるだけでも
よいかもしれません。
そして興味や関心を持ってもらえればそれだけでもかなりな効果と言えるでしょう。
しかしお釈迦さまの本願は人々がその理論の実践を通してほんとうの智慧を
身に付けるところにこそあるのです。

その仏教の理論を実践することが「修行」であり、これを「仏道」といいます。
つまり仏道修行こそがほんとうの智慧を得るための正道なのです。
その正道こそ坐禅なのです。

坐禅は習禅にはあらず、大安楽の法門なり、不染汗の修証なり。「正法眼蔵(坐禅儀)」 (坐禅は禅定を修することではない。それは大安楽の法門であり、絶対の修行
なのである)

ここで「坐禅」について大切なことなので触れておきたいことがあります。
禅宗だから坐禅にこだわるのではありません。
禅師が述べられているように、坐禅が大安楽の法門であり、それ自体が
絶対の修行だからです。

「仏法におおくの門がある。それなのに、なにゆえ一途に坐禅をすすめるのか。
それは坐禅が仏法の正門であるからである。
ではなにゆえにひとり坐禅をもって正門となすか。

大師釈尊は、あきらかに仏道をさとるすばらしい方法を正伝したもうたのであり、
また、三世の如来たちは、いずれもみな坐禅によって仏道を悟ったのである。
だからして、これを仏法の正道であるとするのである。
それのみではない。西の方天竺、東の方中国のもろもろの祖師たちも、
みな坐禅によって仏道をさとったのである。
だからして、いまその正門を人々に示すのである。」「正法眼蔵(弁道話)」

さらに注目すべきことは、道元禅師は「禅宗」という呼称を激しく否定されています。
「かの時においても、まったく禅宗と称するものはなく、また禅宗と称すべき
いわれも存しないのである。」・・・・・「仏祖正伝の大道を、禅宗と称してはならない」「正法眼蔵(仏道)」

更に、「雲門・法眼・臨済・曹洞など、いろいろ家風のわかちがあるというが、
そんなのは仏法ではない、祖師道でもない。」「正法眼蔵(仏道)」、と
天童如浄禅師のことばを引用されてもいます。

「仏法をまなぶ正しい道には、宗の称などを見聞すべきではない。
仏より仏、祖より祖へと付属し正伝するものは、ただ正法眼蔵であり、最高の
智慧である。
仏祖が所有するところのものは、すべてそこに付属してきたのであって、
そのほかに別になにかがあるわけではないのである。そこの道理が、
とりもなおさず、仏法・仏道の骨髄というものである。」「正法眼蔵(仏道)」

あらためて道元禅師のスケールの大きさを教えられます。
因果の道理という理論を智慧として会得するにはやはり坐禅なのです。


合掌                          

       


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