千葉県南房総館山市にある曹洞宗のお寺です。水子供養・永代供養・ご祈祷などのお申し込みは当山まで。坐禅体験もあり。

曹洞宗 正木山西光寺

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法話

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因縁(その4)-- 一大事の因縁 --平成19年7月

前回は輪廻転生について述べました。
おさらいすると、存在するすべての本質が仏性であり、それはただただ因縁に従って永遠に無常であり続けるのです。
その実態を「輪廻転生」と云うのです。

すなわち仏性こそ永遠の「命」であり、その命はただただ因縁の流れに従っているのです。
イヤ仏性自体が因縁と云ってもいいでしょう。
仏性と因縁とは別個のものではないのです。

「仏性の義を知らんと欲せば、当(まさ)に時節の因縁を観ずべし。
時節もし至れば、仏性現前す」「正法眼蔵(仏性)」

仏性の意味を知るには因縁の意味を知ることであり、因縁を悟ることが仏性を悟ることであると道元禅師は示されています。
かねてから申しているように、やはり仏教とはすなわち因縁の教えであるということです。

その教えがまとめられているのが「修証義」の一章です。
「総序」として総括されていますが、その論旨はまさに「因縁」です。
「因縁」を悟りの智慧として会得してこそ人は幸せになれると明示されています。
この章抜きに因縁は語れないと云っても過言ではないでしょう。
よってこれよりしばらくはこの章の中から「因縁」について学んでみましょう。

生を明らめ死を明らむるは、仏家一大事の因縁なり。
生死(しょうじ)の中に仏あれば生死なし。
ただ生死即ち涅槃と心得て、生死として厭(いと)うべきもなく、涅槃として欣(ねご)うべきもなし。
この時はじめて生死を離るる分あり。
ただ一大事因縁と究尽(ぐうじん)すべし。「修証義一章(第一節)」

「生を明らめ死を明らむるは、仏家一大事の因縁なり。」
まずこの言葉から始まっていますが、生死の問題を徹底的に明らかにすることこそ仏教の最も肝腎とするところの究極の目的であるというのです。

仏教とは申すまでもなく、教主釈尊自らが、生老病死という人生最大の問題を解決すべく道を求めて出家修行され覚者となられその道を説き示されたものです。
すなわち生死解脱こそ仏教の究極の目的なのです。
「修証義」の冒頭にまずこの一句が示されているのはまさに当然と言えるでしょう。

「生死の中に仏があれば、生死はない。
生死の中に仏がなければ、生死に迷うこともない。
生死をはなれたいと思う人々は、まさしくその意味するところを明らかにしるがよろしい。」「正法眼蔵(生死)」

正に公案といってもいい句です。
「生死の中に仏があれば」とはどうゆうことでしょうか。
まず「生死」について御開山は次のように示されています。

「そもそも、生と死のありようは、生から死に移るのだと思うのは、まったくの誤りである。
生とは、それがすでに一時(ひととき)のありようであって、そこにはちゃんと初めがあり、また終りがある。

だからして、仏法においては、生はすなわち不生であるという。
滅もまた、それがすでに一時のありようであって、生というときには、生よりほかにはなんにもないのであり、滅というときには、滅よりほかにはなんにもないのである。

だからして、生がきたならば、それはただ生のみであり、滅がくれば、それはもう滅のみであって、ただひたむきにそれにむかって仕えるがよいのである。
厭うこともなく、また願うこともないがよろしい。」「正法眼蔵(生死)」

要約すると、生は生であり死は死である。
生から死に移るということではないし、生は生でしかなく、死は死でしかないのである。
生は生で、死は死でそれ自体が満点であるから生と死とを区別して善いとか悪いとかの問題ではない。

この中のポイントは「ただひたむきにそれにむかって仕えるがよいのである。」というところです。
生は生で満点であり、死は死で満点であるから生死にこだわる必要はなく、生は生で、死は死で「一生懸命」であればよいというのです。

「生死の中に仏があれば生死なし。」 生も死もその本質が仏性であるから、いずれもそれ自体が真如実相の世界であるということです。
そこにはもはや「生死」の区別などありません。
それを「生死の中に仏があれば生死なし」と表現されているのです。

では眼蔵の中の次の一句、「生死の中に仏がなければ、生死に迷うこともない。」とはどうゆうことでしょう。
これは前文に対しての反語による強調です。
「仏がなければ」とは「仏性」にこだわらないということです。
生死を超えた次元にはそれ自体「仏性」という認識もこだわりも無いのです。

仏性、仏性、仏性・・・というのはこだわりです。
こだわりは分別であり妄想です。
そのこだわりを超えたところにほんとうの悟りがあるのです。
そこにはすでに「生死の迷い」などありません。そういうことです。

「ただ生死即ち涅槃と心得て、生死として厭(いと)うべきもなく、涅槃として欣(ねご)うべきもなし。
この時はじめて生死を離るる分あり。」「正法眼蔵(生死)」

生と死の両方がすなわち涅槃であることを知るべきであり、死を涅槃と解釈して求めたり、また涅槃は死だと解釈して忌み嫌ったりすることは間違いなのです。
「生死」を解脱してこそほんとうの「涅槃」の意味がわかるのです。

「この時はじめて生死を離るる分あり。」 涅槃を悟ってこそ生死という分別から解放されるのです。

「ただ一大事因縁と究尽(ぐうじん)すべし。」 この節の結語です。生と死の真実を見極め、涅槃を悟ることこそ仏教徒、修行者にとっての最大の眼目なのです。

合掌

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