千葉県南房総館山市にある曹洞宗のお寺です。水子供養・永代供養・ご祈祷などのお申し込みは当山まで。坐禅体験もあり。

曹洞宗 正木山西光寺

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法話

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因縁(その9)-- 因果を活かす --平成19年12月

「当(まさ)に知るべし、今生の我が身、二つなし三つなし。
徒らに邪見に堕ちて虚(むなし)く悪業を感得(かんとく)せん、惜しからざらめや。
悪を作りながら悪に非ずと思い、悪の報あるべからずと邪思惟(じゃしゆい)するに依りて、悪の報(ほう)を感得せざるには非ず。」

「当(まさ)に知るべし、今生の我が身、二つなし三つなし。」
まさに読んで字の如く、いま生きているところのこの身、この命はたった一つきりのものであり、二つも三つも掛け替えのあるものではありません。

「徒らに邪見に堕ちて虚(むなし)く悪業を感得(かんとく)せん、惜しからざらめや。」
「邪見」というのは、前にも述べましたように、因果の必然の理法を否定する見解のことです。
そのような無意味な邪見に堕ちると無駄な悪の果報を受けることになるというのです。
「惜しからざらめや。」まことに惜しいことではないか、ということです。

「悪を作りながら悪に非ずと思い、悪の報あるべからずと邪思惟(じゃしゆい)するに依りて、悪の報(ほう)を感得せざるには非ず。」
悪業を悪業とも思わず、また、たとえ悪業を造ったところで、悪の報いなどあるものかと自分勝手なよこしまな考え方をしたとしても、悪業に対しての悪報を受けずに済むということは絶対に無いというのです。

以上が第一章の最後、第六節の説明ですが、ここでの論旨は「免れえぬ因果の道理」ということです。
「一たび人身を失えば万劫に還り難し」(梵網経)とありますように、ひとたび人間の身を失えば、再度人間に還るということは永久に訪れないということです。
人生は二度は絶対にないことを智慧として知るべきだということです。

だからこそ、尊い人の世に生を受けた今生のわが身と、さらに値い難き仏法に遭い奉った因縁に感謝し精進することこそ三悪道に堕ちいらない術なのです。
因果の業報は絶対に免れることはできないことを肝に銘じるべきだということです。

しかし、人は誰でも過ちを犯すものです。
そしてそれなりの業報を受けますが、大切なことは、その後の懺悔と、その"因果を活かす"ことです。
「因果を活かす」ことこそ真の智恵なのですから。

ところで、今年も12月8日がやって参りました。
言わずもがな"成道会"(じょうどうえ)です。
お釈迦さまがお悟りを開かれた日としての聖日であり、私たち仏教徒は皆お釈迦さまへの報恩感謝の意味を込めて特に供養を捧げる日です。

しかし他方、12月8日と言えば多くの日本人は過去の日米開戦を回顧するでしょう。
62年前のその日、旧日本帝国はアメリカハワイ真珠湾に奇襲攻撃を決行し太平洋戦争が勃発したのです。
お釈迦さまが人類を救わんとするお悟りを開かれたその聖日に、日本は戦争を始めたのです。
よりによって成道会の日に開戦したところに大変な因果を感じるのはわたしだけではないでしょう。

結果、日本は230万人の兵士と80万人の市民が犠牲となりました。
原子爆弾投下という人類史上絶対に許されない被害も被ったのです。
何という因果でしょうか。 因果の業報は個人のレベルだけのものではありません。
民族や国家という単位でも起こるのです。

一民族、一国家の指導者のエゴが悪業となり悪報となるのです。
ちなみに第二次世界大戦の犠牲者をみてみますと、ドイツ550万人、ソ連2000万人、中国1000万人、ポーランド600万人、イタリア78万人、イギリス50万人、アメリカ40万人、フランス34万人となっています。

さらにドイツでは600万人といわれるユダヤ人が強制収容所で虐殺されたり、中国南京での日本軍による10万〜20万人の虐殺(中国は30万を主張)。
広島原爆14万人、長崎原爆7万人、東京空襲爆撃10万人、沖縄戦線では12万人というそれぞれ大変な犠牲者が出ました。

その他、シベリア抑留約60万人、朝鮮から70万人、中国から4万人の日本への強制連行、従軍慰安婦問題、等々計り知れない非人道行的為が行われました。
この大戦でヨーロッパでは約4000万人、アジアで約2000万人、全世界で約6000万人もの尊い人命が奪われたのです。

戦争を起こすのは一握りの指導者かもしれませんが、その民族、その国民の運命がその者達に左右されるということに言い知れぬ不条理を感じます。

戦争は人の理性を奪い心を鬼にします。殺人と破壊という人類最悪の行為です。
それぞれが勝手な大義名分を主張し、それなりの理由があるとされていますが、戦争によって生まれるものは何もありません。救われる人は誰もいません。
"忠義報国"とか"聖戦"とか、欺瞞の言葉でしかありません。

平和な社会にあっては、殺人行為は日本であればその刑罰は死刑が相当です。
それが、同じ殺人行為であっても戦争では一切罪が問われません。
むしろ敵を多く殺した者程英雄扱いされるのです。
こんな理不尽はありません。
戦争だから当たり前と言う人がいるでしょう。
しかしこれは真理の智慧から見たら途轍もなく異常なことなのです。

そこで思い出されるのは、私がかつて高校の教員をしていた時のことです。
ある時、ある教頭と"命"についての議論になりました。

その教頭が言うに、戦争での命と平和の時の命とでは重さが違うというのです。
戦争での命は軽いと言ったのです。
それに対して、私が、命の重さはどんな状況であっても変わりはない。
戦争での命は軽いというのはまったくの間違った認識だと主張したのです。

負けず嫌いのその教頭は猶も言い張るので、私が、「ではそれを公の場で言えますか?」と言ったら、その一言で、彼はその議論から逃げていきました。
これはその教頭一人の問題ではありません。
実は多くの人たちがそのような認識を持っているのです。

命というものは、人種、民族、階級、貧富、能力、性別に関係なく、みんな絶対平等だということを"知識"としてはみんなしっかり知っています。
しかし、人の心は実に弱く不確実なものです。
戦争は人々を集団パニックに陥れ、当たり前である筈の常識や認識はそのパニックですっかり狂ってしまうのです。それが"戦争"という狂気なのです。

パニックはその民族、国民から正常な思考力、判断力、自制心を奪ってしまいます。
人々は一部狂った指導者達に自分達運命のすべてを託してしまうのです。
一度勢づいたその殺人と破壊のエネルギーは途中で止まることは決してありません。
行き着くところまで行ってしまうのです。
前述の第二次世界大戦での犠牲がそれを如実に証明しています。

過去は仕方のないものとしましょう。問題はこれからです。
絶対に戦争は起こさないという盤石の備えこそ必要なのです。
どんな賢人や学識者、聖職者、宗教家、僧侶であれ、一旦戦争になればその波に呑みこまれてしまい為す術はありません。

ではどうしたらよいでしょう。それは病気と同じです。
普段から健康に注意して、絶えず健康検診を怠らず、もし危険な兆候が少しでも現れたら即治療を施すということが必要なのです。
病気も戦争も普段が大事です。
それこそ普段の生き方を指導する賢人や学識者、宗教家、聖職者、僧侶の存在が問われるのです。

戦後62年、人の記憶も反省も風化の一途を辿っています。
しかし、12月8日こそ、成道の日としてお釈迦さまへの一層の帰依と同時に、あらためて戦争への懺悔とこれからの平和への誓いをあらたにし、過ちは決して繰り返さないための真の智慧を身に着けることです。
"因果を活かす"とはそういうことです。

合掌

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