千葉県南房総館山市にある曹洞宗のお寺です。水子供養・永代供養・ご祈祷などのお申し込みは当山まで。坐禅体験もあり。

曹洞宗 正木山西光寺

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法話

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こころ(10)-- 非風非幡非心--平成21年4月

無門関第二十九則 「非風非幡」(ひふうひばん)
動いているのは幡(はた)でも風でもなく、それを見ている人の心だという、前回に引き続き"心の実体"に挑む公案です。

本則
六祖、因(ちなみ)に風刹幡(せっぱん)をあぐ。
二僧有り対論す。
一(ひとり)は云く、幡動くと、一は云く、風動くと。
往復して曾(かっ)て未だ理に契(かな)わず。
祖云く、是れ風の動くにあらず、是れ幡の動くにあらず、仁者が心動くのみ。
二僧悚然(しょうぜん)たり。

「六祖」とは達磨大師を初祖としてその第六番目の祖師という意味であり、大鑑慧能(だいかんえのう)禅師のことです。
唐の時代、禅宗の黄金時代を築いた第一人者であり、まさに禅宗の中興の祖とも云うべきお方です。

刹幡(せっぱん)とは、寺で説法をする印に掲げる旗のことです。
その幡を風が吹き上げていました。
これを見ていた二人の若い僧が議論を始めました。
一人は「幡が動いている」と言い、もう一人は「イヤ風が動いているのだ」と言って互いに譲りません。
その遣り取りを見かねた六祖は「幡が動くのでも、風が動くのでもない。お前さん方の心が動くのだ。」と言い放しました。その若い二人の坊さんは身震いしました。

以上が本則の内容ですが、常識から言えば風が動くから幡が動くのであり、それを己の心が動いているから幡も風も動くのだという、その真意とは一体何でしょう。

結論を言ってしまえば、幡と風と心の実体が"一つのもの"だということです。
しかしそれは机上の理論であり、机上の理論では答えにはなりません。
以前から言っているように理論上の理解は絵に描いた餅です。
本物を味わうには理論を超えた"実物"を会得するしかないのです。
そのために必要なのが"証明"です。
公案の意味合いはまさにここにこそあるのです。

公案はすべてそうですが、狙いは「三界唯一心」「心外無別法」という理論の"証明"です。
宇宙の真理も仏法も、理論は単なる知識です。知識は分別です。
分別は妄像ですから、その一切の分別妄想を断ち切るための証明が必要なのです

今回の公案で言えば、幡と風と心の実体は一如であるということの証明です。
すなわちこの三者間にある一切の対立観念を完全に払拭するための証明です。
室に於いては「作用」を以て証明しますが、さあ、あなたならこの公案をどう作用しますか? 作用の仕方は「達磨安心」のところで私が示した通りです。
ヒントはそれで十分でしょう。
無門禅師は提唱しています。

拈提
無門曰く、是れ風の動くにあらず、是れ幡の動くにあらず、是れ心の動くにあらず、甚(なん)の処にか祖師を見ん。
若し者裏(しゃり)に向かって見得して親切ならば、方(まさ)に知る二僧鉄を買って金を得たり。
祖師忍俊(にんしゅん)不禁(ふきん)して、一場の漏逗(ろうとう)なることを。

六祖は「風が動くのではない、幡が動くのでもない。あなた方の心が動くのだ」と言われるが、かと言って、心が動くのでもない。
さあ、どこに祖師の面目を見るか。
もしここでそれがばっちりと看て取れたら、二人の僧はくだらない問答をしたお陰で、大変な法(真理)を聞くことができたのである。
それはいわば鉄を買って金を得たということになるのである。六祖は二人の愚かさを見ておられず、飛び出したことで大きな失敗と恥をかいたことを知るであろう。

なんと、驚くなかれ、無門禅師は「心が動くのでもない」と明言しているのです。
くだらない論議をしていた二人の僧だが、彼らがもしその「心不動」の真意を理解できたら、彼らは鉄を買ったつもりが実は金を得たということになるというのです。
となれば六祖はつい口を滑らせたことで大きな失敗と恥をかいたことになるというのです。

「鉄を買ったつもりが実は金を得た」という意味は、「おかげで"更に深い悟り"を会得することになるだろう」ということです。
つまり、六祖の言った「あなた方の心が動くのだ」という一言でその若い二僧が見性しさらに悟境を深めたら「心不動」という世界を徹底するだろう。
そしたら、六祖の一言はその格下に見られるだろうということです。

因みに、「六祖はつい口を滑らせたことで大きな失敗と恥をかいた」という表現はなにも六祖を批判しているのではありません。
これは言貶意揚(ごんべんいよう)と言って口ではけなして心では褒めているのです。
この手法は禅門の特徴であり無門禅師の提唱では特に顕著です。

さて、では、その「心動かず」の真意とは何でしょう。
無門禅師は更に「頌」において提唱しています。


風幡心動、一状領過す。
只口を開くことを知って、話堕(わだ)することを覚えず。

「風幡心が動く、などとは、二僧と六祖の三人は皆同罪である。ただ議論することは知ってはいるが言い損なったことに気が付いていない。」という意味です。
「一状」とは、一通の判決状という意味で、三者の罪状は一通で間に合うという意味です。
例によって言貶意揚の表現で無門禅師は六祖をばっさり切り捨てていますが、その本意は六祖の悟境を讃えたものです。

では「風・幡・心が動く」と「風・幡・心は動かず」との違いは何でしょう。
語意からすればまったく相反する表現です。
しかし、ここがこの公案の見所なのです。
この公案の意図はまさにここにあるのです。

それはつまり「心が動く」と「心動かず」に"差"があったら「事実」は見抜けないということです。
すなわち、「動く」が真に分かれば、同時に「動かず」が分かるのです。
「動く」を観念として理解していたら絶対に分かりません。
ちょっとでも差別観念が働いたらたちまち「真実」は"天地遙かに隔たって"しまうのです。

「物我一如」(もつがいちにょ)という観念は確かに仏法を表した言葉ですが、その観念に囚われている限り「分別」なのです。
分別は妄想であり「事実」ではありません。
だから「分別」を超越したところにある「事実」を捉えるのが公案です。

風・幡・心が真に不二一体のものならば、一体という認識も、不二という概念も、「動く」「動かない」という観念も、更に言えば「悟り」という観念もそこにはありません。
あるのはただ「あるがまま」の「まるだし」だけです。

「ただまるだし」の世界には一切の分別はありませんから、無門禅師の言う「動くもの」など何もないのです。
一切の対立観念もないから幡も風も心も無く「物我一如」なのです。
すなわち「まるだし」が「事実」なのです。
あえてやぼな"説明"をすればそういうことです。

と言われて「まるだし」とか「事実」を"想像"しているうちは絶対ダメです。
「想像」こそ正真正銘の妄想です。
だから室に於いてはただ「まるだしの事実」を"作用"すれば良いのです。
最高のヒントですよ。
さあ、ではその「事実」を証明してみてください。

合掌

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