千葉県南房総館山市にある曹洞宗のお寺です。水子供養・永代供養・ご祈祷などのお申し込みは当山まで。坐禅体験もあり。

曹洞宗 正木山西光寺

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法話

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こころ(19)--「以心伝心」--平成22年1月

新年明けましておめでとうございます。
お陰様で本ホームページも5年目の正月を迎えることができました。
本年もよろしくお願い致します。

「以心伝心」(いしんでんしん)・・・ 心をもって心に伝えること。無言のうちに思っていることを相手に分からせること。
言葉にしなくとも心意が相手に通じること・・・ 誰でも知っている有名な言葉ですが、本来は、「文字や教典によらずに、師と弟子が向かい合って心から心に仏法の真意が伝わる」という意味の禅語です。

心といっても世俗的な喜怒哀楽の心ではなく「仏心」のことですからつまり、心から心へ「仏心」が伝わるということです。
今回はこの「以心伝心」の曰くになっている公案「世尊拈花」(せそんねんげ)からそのほんとうの意味を検証してみたいと思います。

無門関第六則 世尊拈花
本則
世尊昔霊山会上(りょうぜんえじょう)に在りて、花を拈(ねん)じて衆に示す。
是の時衆皆黙然たり。惟迦葉尊者のみ、破顔微笑す。
世尊云く、吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門、不立文字、 教外別伝有り、摩訶迦葉(まかかしょう)に付属す。

「霊山」(りょうぜん)とは霊鷲山(りょうじゅせん)の略で、マカダ国の王舎の近くにあった山で、その形が鷲に似ているところからその名前が付いたとされています。
お釈迦さまが説法をされるときのいわばホーム道場がこのお山にあったのです。

ある日大梵天王が金婆羅華(こんぱらげ)という金色の美しい花を一輪お釈迦さまに献じて御説法をお願い致しました。
するとお釈迦さまは獅子座に登られ、これから御説法を拝聴しようと静まりかえった大衆に向かって、何も仰せにならず、す〜とその一輪の花を提示されたのです。

この時、誰もがお釈迦さまの所作の意味が見てとれずただ黙っているだけでした。
すると、そのなかで唯一人摩訶迦葉尊者だけがこれを見て微笑されたのです。

それを見たお釈迦さまは宣言されました。
「わたしに正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門、不立文字、教外別伝の法が有りますが、それを今そっくり摩訶迦葉に伝えましたぞ。」と。

つまり、お釈迦さまは一枝の花を手にされ、じ〜と提示されました。
それを見た迦葉尊者がにっこり微笑まれました。
それに対してお釈迦さまは「只今私の仏心を迦葉尊者に伝えました。」と申されたのです。

まさに大衆の面前で開けっ放しで「仏心」が受け渡されたのです。
一言一句のやりとりもなく"以心伝心"を以って印可証明が行われたのです。
ここに一体何があったのでしょう。

聴衆の中には智慧第一の舎利弗も、雄弁第一の富楼那も、神通第一の目連も、その他大勢の尊者達や弟子達が居た筈です。
しかしその真意を理解できた者は他には誰もいなかったということです。

「正法眼」とは、正しい法の眼、すなわち真理が見える心眼のこと。
「蔵」とは、それを納めておく蔵のこと。
「涅槃」とは、不生不滅なる安楽円寂の世界。「妙心」とはその心。
「実相無相」の実相とは、ありのままの姿のことであり、その実体は無相であるということ。

「微妙の法門」の「微妙」とは言葉で説明尽くせない境涯のこと。
「不立文字、教外別伝」とは、文字通り文字にも言葉にも表現できない境地のこと。
つまり「微妙の法門」は正に不立文字、教外別伝だからこそ、"心を以って心に伝える"以外にはなかったのです。

では斯様に"以心伝心"されたその「微妙の法門」とは一体何だったのでしょうか。
摩訶迦葉だけに理解されたという「微妙の法門」、その実体を解くのがこの公案の狙いなのです。

ヒントを言えば、キーワードはズバリ「不立文字、教外別伝」です。
不立文字、教外別伝とはつまり"説明出来ない"ということですね。
これは拙僧がこれまでもクドクド講釈してきた通りのことで、真如という「微妙の法門」は"説明"では絶対に分からないということを言っているのです。

だからこそお釈迦さまは一輪の花を手に取って黙って大衆に示しただけなのです。
ここにこそ答えがあるのです。
お釈迦さまが手に取って示したたった一輪の花、そこに真如の全て、すなわち「正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門」がすべて露堂々と現れているのです。
ここが分かるかどうかが全てです。

お釈迦さまが、もしそこで手にした花を"説明"したら、即今それは理論上の「観念仏法」「観念真如」になってしまうのです。
何度も言うように観念は妄想です。 だからお釈迦さまは一言も申されずに「真如」そのものをズバリお示しになったということです。

説法といえば口でごちゃごちゃ喋って説明してくださるものだとしか思っていなかった大衆にとって、この時のお釈迦さまの所作は当然理解できませんでした。
言葉を超えた方法で説法されたのですが、迦葉尊者だけがその真意を理解し「破顔微笑」されたという次第です。

これは案外お釈迦さまにとって想定済みの演出だったのかもと拙僧は思うのですが、いずれにしろ、お釈迦さまのお悟りの「心」がそっくりそのまま二世の迦葉尊者に"以心伝心"されたというこの話は仏教史上最も有名な説法になっています。

さあ、もうこの公案の答えは分かりましたね。
一輪の花それ自体が「正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門」だということです。
敢えて"説明"したように、その一輪の花こそが真如の実体だということです。
すなわちその一輪の花自体が正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相という微妙の法門そのものだということです。

つまりその一輪の花の中に大宇宙の実体が存在するということであり、自分自身も含めた森羅万象のすべてがその花一輪の世界と一如だということです。
花一輪の中に有る大宇宙の実体、その真如を見極めるのがこの公案の狙いなのです。

露堂々ありのままの一輪の花こそ真如それ自体だと悟ることです。
何度も言うように真如そのものを説くことはできません。
だからこそお釈迦さまは何の一言も無く「そのもの」を提示されたのです。

真如は絶対説明できない「不立文字、教外別伝」であるからこそ、体験で悟るしかないことをこの公案は明示しているのです。
これ以上の"説明"は止めましょう。無駄なことです。

では、室においてこの公案はどう解くのでしょう。
ただ「体現」すればよいのです。
分かってみれば答えは極めて単純明解です。

合掌

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