千葉県南房総館山市にある曹洞宗のお寺です。水子供養・永代供養・ご祈祷などのお申し込みは当山まで。坐禅体験もあり。

曹洞宗 正木山西光寺

曹洞宗 正木山西光寺

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法話

法話

十三仏(釈迦牟尼仏)--その2 教団誕生--平成23年5月

まだまだ大震災の収束に見通しがつきません。
いまだ8500人以上の人が行方不明となっています。
亡くなった人たちの無念さとご遺族の心中を思うとほんとうにこの世の不条理を恨むばかりです。

特に原発による被害は天災というより人災の思いが強く、人為を恨む心境が日毎に増してきます。
ましてや、実態を正直に公表していない政府・東電には怒り心頭です。
ただ、現場で日夜まさに命がけで働いている作業員こそほんとうに気の毒です。
その人たちには感謝はもちろん、ただその無事を祈るばかりです。

伝道の旅

釈尊は成道後鹿野苑で五人の旧友に対して初めての説法をしました。
これを初転法輪といいます。
その内容は、主に「四諦八正道」の教えだったということです。
かつての仲間たちはその教えに感銘し最初の弟子になりました。
こうして仏教教団の第一歩がはじまったのです。

釈尊とその弟子五人の比丘は広く教えを伝えるための旅にでます。
これより教団が発展していく過程を十大弟子の入信の経緯などを交えて見てまいりましょう。

釈尊はバーラーナシーに向かう途中ヤサという青年に出会いました。
裕福な商人の息子であったのですがむなしい生活に悩んでいました。
釈尊から三論・四諦を説かれ、その教えに感銘しヤサはその場で出家を決心しました。

その事実を告げられたヤサの両親は釈尊の言葉に感銘し、在家信者になりました。
教団初めての優婆塞(うばそく)優婆夷(うばい)の誕生になったのです。

ヤサの出家は町の人々に衝撃を与えました。
けがれのない新しい生き方を求めて次々と若者が出家したのです。
ヤサの友人だけでも54人が出家したと言われています。
出家者たちはわずかの間に次々と覚りを開き、60人の阿羅漢が誕生したのです。

釈尊は弟子たちにそれぞれが伝道の旅に出るように告げると、御自身はマガタ国へ向かわれました。 そこにはカッサパ三兄弟が住んでいました。
彼等はバラモンで長男のバルバーラには500人の弟子が、次男のナディには300人、三男のガヤーには200人の弟子がいたといわれます。

釈尊は先ず長男のバルバーラの庵を訪れ説得を試みますがなかなか釈尊の説法を認めようとしませんでした。
最後に釈尊は神通力で川面を渡るなどなんと3500もの奇跡を起こしたといわれます。

ついに釈尊の偉大さを認め、慢心を恥じたバルバーラは、大地にひれ伏して釈尊への帰依を誓い弟子になったのです。
すると、彼の500人の弟子達も一緒に釈尊の弟子になったのです。
このあと次男のナディと三男のガヤーもそれぞれの弟子を引き連れて釈尊の弟子になったのです。

釈尊が悟りを得てからこの間わずか半年で教団は1000人以上に増え、特定の集団を表すサンガ(僧伽)という言葉が使われるようになったのです。
サンガは、修行と教えを説く出家者(比丘・比丘尼)と、戒律を守って寄進や布施をする在家信者(優婆塞・優婆夷)に大きく分けられます。

1000人の弟子を率いた釈尊は、マガタ国の首都王舎城に入りました。
人々は尊敬を集めてきたカッサパ三兄弟が付き従っている釈尊を見て不思議に思いました。
そんな彼等に、長男バルバーラは「釈尊こそわが師」と言って釈尊の足に礼拝し釈尊の偉大さを知らしめたのです。

釈尊の来訪を知ったビンビラーサ王は飛び上がらんばかりに喜び迎えました。
それは、王はかつて、出家したばかりのシッダッタ太子(釈尊)に出会っていたのです。
その時、悟りを開いたら必ず再会し、自分と国民のために説法をすることを約束し合っていたからです。

そして今、その約束通り釈尊が帰ってきたのです。王の喜びは大変なものでした。
王は、12万の民と共に釈尊の元を訪ね、教えを受けたのです。
その中のカランダカ長者という豪商が自身の所有する竹林園の寄進を申し出たのです。

それを受けてビンビラーサ王は、城から適当な距離に精舎(僧院)を建てる決心をしたのです。これが竹林精舎と呼ばれる仏教最初の寺院となったのです。

ラージャグリハというところにサンジャヤというバラモンがいて多くの弟子を持っていました。
その中にいたのがサーリプッタ(舎利弗)とモッガラーナ(目連)です。

二人は幼なじみの親友で共に出家し、サンジャヤの弟子になっていたのですが、日頃からサンジャヤの教えには満足していませんでした。
ある日のこと、サーリプッタは町で釈尊の弟子アッサジに出会います。
その威厳のある姿に魅せられて声をかけた結果、釈尊の説く縁起論に感銘し、親友モッガラーナ(目連)のもとに急ぎました。

二人は釈尊に帰依する決心をして、250人のサンジャヤの弟子を引き連れて竹林精舎へと向かったのです。
その後、釈尊のもとで修行し悟りを開いた二人は、やがて智慧第一の舎利弗尊者と、神通第一の目連尊者として、教団の指導的重大な役割を担うことになるのです。

そして又ある日、釈尊は一人菩提樹の下で坐禅をしていました。
そこにカッサパが通りかかったのです。
彼こそ後の大迦葉尊者です。裕福なバラモンの家に生まれたのですが、早くから出家を望んでいました。

両親の死後妻と一緒に出家しました。(両親の死後離縁の説も有り)
そんな彼がある日禅定の釈尊の前を通りかかったのです。

釈尊は静かに「カッサパよ」と声をかけました。カッサパはすぐに偉大な人だと気づき説法を聞きました。
すぐに釈尊に帰依し、八日後には悟りを開いたのです。
舎利弗尊者や目連尊者が亡くなって後、十大弟子の筆頭として釈尊の後継者になったのです。

コーサラ国の首都シラーバスティ(舎衛城)に、スダッタ(須達多)という豪商がいました。
スダッタはマカダ国で釈尊の教えを聞き、深く帰依しました。
そこでスダッタは、釈尊に「教団のために精舎を寄進いたしますので、コーサラ国へ来て教えを説いてください」とお願いしたところ快諾を得ました。

自国に戻ったスダッタは精舎を建てる土地を求め、祇陀太子の所有する園林の購入を申し入れたところ「たとえその土地に金貨を敷き詰めても売れない」と断られたのです。

それならばと、彼は実際にその地面に金貨を敷き詰め始めたのです。
しかしいくら富豪の彼といえども全ての私財を投げうっても叶う現実ではありませんでした。

しかし彼の熱意に心を打たれた祇陀太子は一部を自分が寄進することで遂に園林を提供したのです。
スダッタはそこに精舎を建て釈尊に寄進したのです。 これが祇園精舎です。
京都をはじめ、日本各地にある「祇園」の地名は、この故事に由来しているのです。

マガダ国王、コーサラ国王、その王族や家臣たちが多く釈尊に帰依したという評判は釈尊の故郷カピラ国スッドーダナ王の耳にも届きました。
その仏陀の勇姿を見たいと願った父王は九人の使者を送って、釈尊の帰郷を願ったのですが、みな釈尊のもとで出家してしまい戻ってきませんでした。

釈尊の太子時代の友人を10人目の使者として送り出した結果、ようやく仏陀釈尊の帰郷が叶ったのです。釈尊が悟りを開いてから六年目のことでした。

父王をはじめカピラ城の人々は釈尊を温かく迎えました。
教えを聞いた父王は釈尊に帰依し、「わがサーキャ族は各家庭から一人以上の出家者を出す」という規則まで作ってしまったのです。

このことから、釈尊の実子ラーフラ(後のラゴラ尊者)、従兄弟アーナンダ(後の阿難尊者)やアヌルッダ、理髪師のウパーリ(後の優離波尊者)などなど、500人以上のサーキャ族が出家したのです。
中でも阿難は釈尊が55歳の頃に侍者になって以来、釈尊のお側付きとして、秘書として釈尊が入滅するまでの25年間努めたのです。
今回はここまでと致します。

合掌

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