千葉県南房総館山市にある曹洞宗のお寺です。水子供養・永代供養・ご祈祷などのお申し込みは当山まで。坐禅体験もあり。

曹洞宗 正木山西光寺

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法話

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十三仏(釈迦牟尼仏)--その9 最後の弟子--平成23年12月

命の尊厳

故人にとって人生最期の"舞台"、それが通夜、葬儀です。
"舞台"などとは不適切な表現かもしれませんが、敢えて申せば、それが故人にとっての最後の"主役"の場だからです。

「人生、百人百様、同じようなものなど二つとないのが人の人生です。
その唯一無比の"主役"が、今ご自分の一生に満足し、肉親、縁者のみなさまに感謝し、従容として浄土に旅立たれんとされています。
その心境が穏やかなお顔立ちになって表れています・・・」たいていの通夜で拙僧が述べる言葉です。

臨場の肉親、縁者は故人に感謝し、徳を称え、哀悼を捧げ、"主役"の冥福を祈ります。
人生終焉の"舞台"はしめやかに"終演"を迎えようとしています。
まさに尊厳ある"旅立ち"といってよいでしょう。

拙僧、住職になって以来多くの葬儀をつとめてまいりました。
そのほとんどはそのようなしめやかな尊厳に満ちたものでした。
そんな"演出"が人として当たり前の最期だと思っていました。いや、今でもそう思っています。
人の命ほど尊厳あるものはないと思うからです。

しかしそれが、今年、とんでもない災害が東日本を襲い、何万人もの罪もない人達の尊い命が一瞬にして奪い去られてしまいました。
しかも人としての尊厳さえも打ち砕くようなあまりにも無惨なかたちで・・・

「さようなら」「ありがとう」の一言も言えずに、亡くなった人の無念さを思うとたまりません。
残されたご遺族の気持ち、未だ行方不明の方のご家族の気持ちは如何ばかりか、そのうえ家や財産など一切を失った絶望感は想像を絶するものです。
いくら自然災害とはいえ、あまりにも不条理です。

人には人としての尊厳があります。その"さいごの舞台"が葬儀です。
その、人としての"しめやかな、当たり前"の葬儀、告別が"演出"出来なかった、犠牲者と遺族の無念さと悲しみは察するに余りあります。
その多くの御霊(みたま)にただただ心からの哀悼の意を捧げます。

今年、平成23年はそんな本当に残念、無念の歳でした。
この悲劇を忘れずに、多くの人々の犠牲が無駄にならないよう復興に向けて、頑張るしかありません。
どうか、新年は穏やかな歳になりますように・・・

わが世尊、釈迦牟尼仏は、まさに入滅にされんとする中、忌わの際まで衆生済度につとめられ、そして最後の弟子をつくりました。
世尊は最期まで尊厳に満ちておられました。

最後の弟子スバドラ

「遺教経」の初めに「釈迦牟尼仏、初め法輪を転じて、阿若僑陳如(あなきょうじんにょ)を度し、最後の説法に須跋陀羅(スバドラ)を度す」とあります。

その最後の弟子「スバドラ」のお話です。
「今夜、お釈迦さまが般涅槃されるであろう」と聞いたスバドラは、「今私に生じている疑問を解いてくれることができるのはお釈迦さまだけだ」として、彼はサーラ林に出かけて行きました。

そして、阿難尊者に頼みました。
「如来であり、阿羅漢であり、完全に悟った仏陀は、きわめてまれにしかこの世にあらわれない。しかるに私には、いま疑問が生じています。お釈迦さまはきっと私の疑問を解いてくださると思います。どうかお釈迦さまに会わせてください」

阿難尊者は言いました。 「おやめなさい、スバドラさん。世尊は疲れています。世尊を悩ませてはいけません」
スバドラは二度、三度、同じことを述べ、阿難尊者に頼みました。
それに対して、阿難尊者も同じ言葉で三度断りました。

そのやりとりをお聞きされた釈尊は、「やめよ、阿難よ、サバドラをさえぎってはならない。阿難よ、スバドラに如来を見ることを許しなさい。彼は私を悩まそうと思って質問するのではない。私は何の質問にも答えるし、彼はそれを理解できる」と答えられました。

そこで阿難は、スバドラに「おいきなさい、スバドラさん。世尊はあなたに許可を与えられました」
スバドラは釈尊のところに近づいて、ていねいに挨拶をし、一方に座しました。

スバドラは初めに、「六師外道」に関する質問をしました。
時間を持たない釈尊は、それを見当違いの質問だとして、「その問題は捨てなさい。私はあなたに法を説きましょう。よく注意して聞きなさい」と諭されました。

「かしこまりました」とスバドラはお釈迦さまに同意しました。
そして、釈尊は、「世間には多くの宗教家がいるが、その教えの中に『八正道の教』が無いものは、修行も悟りも阿羅漢も認められないし、真実の果報も決して得られない」と諭されました。

そしてさらに、「しかるにスバドラよ、私の説く教理と戒律には、聖なる八正道が見いだされる。ゆえにこの教理と戒律とによって修行する者には、真実の悟りを得ることが出来、この世はむなしくないであろう。

スバドラよ、私は齢29歳にして、善とは何かを求めて出家した。
スバドラよ、私が出家してから50年余となった。
正理と正法の地を歩んできた。 これより以外に、真実の修行者は存在しない。」

釈尊の説法を聞いて、スバドラは心から心服し、次のように申し上げました。
「世尊よ、すばらしいことです。世尊よ、実にすばらしいことです。
たとえば倒れたものを起こすがごとく、覆われたものを露(あら)わすがごとく、迷った者に道を示すがごとく、暗闇に灯火をかかげるがごとく、世尊は種々の方法によって法をあきらかにされました。

私は、世尊に帰依します。そして完全な修行僧になる戒律を得たいと思います。
正規の修行僧になるには、試験期間が四ヶ月あるとのことですが、私には四ヶ月ではなしに四年間の試験期間を過ごさせてください。
そして、教団の許可がありましたら、どうか私に修行僧になる許可を与えてください。」

そこで釈尊は阿難尊者に言われました。
「それでは阿難よ、このスバドラを出家せしめなさい。」
阿難尊者は、「かしこまりました。」と答えて、スバドラを出家させました。

スバドラは修行僧としての戒律を具えたあとで、独りで、怠らず熱心に修行し、やがて無上の悟りを得、そして、ついに清らかな阿羅漢になりました。
釈尊最後の直弟子、それがスバドラでした。

合掌

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