千葉県南房総館山市にある曹洞宗のお寺です。水子供養・永代供養・ご祈祷などのお申し込みは当山まで。坐禅体験もあり。

曹洞宗 正木山西光寺

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法話

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四諦--苦諦その4 病苦その2 病気にならない生き方 その10
―平和ボケ症を考える― 平成26年5月

四月のさくら前線のあとを追い駆けるようにやってくるのがゴールデンウイークです。
日本中が行楽ムードに湧き、多くの人が行楽に行かなきゃ損だという、そんなテンションに駈られるから不思議です。
もはやお正月、お盆に次ぐ国民的文化になっているのでしょう。

ここ館山も、毎年この時期多くの行楽客がやってまいります。
当山のすぐ前に国道127号線があり、館山道終点から近いこともあってよく渋滞します。
ナンバープレイトから実に多くの県外車が目に付きます。

"ゴールデンウイカー"にとって"行楽祭り"に酔いしれるのも結構ですが、少しは「憲法記念日」の意味などを考え自分の平和ボケを自覚してみてはどうでしょうか。
「平和ボケ」も「ボケ病」の一つだとしたら放っておけませんよ。

まず、平和ボケとは、自分さえ善良につつましく暮らしていれば、どこの誰からも権利を侵害されず、これから先も平穏に暮らしていけると思っている「錯覚」のことです。
つまり平和への感謝、関心がなくなり戦争への危機感がなくなることです。

戦後70年あまり、日本は戦争もせず国際紛争にも巻き込まれずやってきました。
世界的にも比類のないまさに平和大国ニッポンなのです。
そんな国民にとって平和はあたりまえであり戦争など無縁なのです。

平和ボケであろうと平和であるに越したことはありません。
がしかし、今その日本の平和に水を指しているのがご存知集団的自衛権行使容認問題です。
連日マスコミはこの問題にヒートアップしていますが、平和ボケ国民にとってイマイチ盛り上がりに欠けます。

"平和ボケ"にとって、真の平和とは何かを考えることが"対症療法"になるのです。
平和という国民の幸せと安全は国家に委ねられているのですから、決して国政に無関心であったり無責任であったりしてはなりません。

まず、「集団的自衛権」とは、日本と関係の深い他国が攻撃された場合、日本が攻撃されていなくても反撃する権利のことです。
これは、現在の憲法解釈では、自衛のための必要最小限度の武力行使を越えるとして禁じられているのです。

その憲法の解釈を変えて、「自衛のため」ではなく「他国のため」に武力を行使できるようにするのが、「集団的自衛権」です。
具体的に言えば、親分(米国)のケンカに子分(日本)が加勢するということです。当然相手からすれば子分は敵として攻撃されることになります。

安倍総理は、朋友国共々有事の際に戦争のできる体制こそ戦争の抑止力であると考えています。
戦争放棄を謳っている憲法九条は現実にそぐわないとして、歴代の総理ができなかった憲法改正を自分の手でやり遂げたいという強い使命感に燃えています。

それに対し、日本の平和は不戦を誓った憲法「九条」の御利益であり、専守防衛に徹することこそ戦争の抑止力である。その平和の象徴でもある"平和憲法"を変えることなど許されないというのが反対の人達です。

アベさんの悲願はあくまでも九条の排除です。
しかし、正面きっての「憲法改正」のハードルは高く、とても無理だとして考えたのが、第96条の変更です。
憲法改正のためには衆参両議院の3分の2以上の賛成で発議し、国民投票で過半数の承認を得なければならないとする、まさに憲法を守るための条文です。

なんと、彼は憲法を多数決、つまり過半数で改正できるよう試みたのです。
さすがこれには野党のみならず与党の中からも反対があり断念しました。
この一件から明らかなように彼の執念は尋常ではありません。

正面からも側面からもダメだとわかったアベさんの取った最後の手段が、いわゆる「解釈の変更」という"裏口"作戦です。
そんな最後の"取りつく島"が「集団的自衛権」ですからアベさんにしたら必死です。
その必要性について自ら直接国民に説明、説得を試みましたが、その事例はどれも稚拙であり説得力に欠けるものでした。

すべて「個別的自衛権」で十分対応できるものだったからです。
だいたい憲法を「解釈の変更」などで変えるという発想自体姑息です。
そもそも矢鱈なことでは変えられないからこそ「憲法」の「憲法」たる所以なのですから。

過去の戦争が国家権力によって引き起こされという反省のもとに、日本国憲法では主権が在民になりました。
ところが、アベさんのやろうとしていることは、その主権を国民から国家に戻し、国家権力のもとでいつでも戦争のできる体制にすることです。

これは歴史の逆行であり、自ら唱える「憲法を国民の手に取り戻す」どころか、「憲法を国民から取り上げる」ことにほかならないのです。
まさに希代の為政者ならぬ偽善者です。

「日本国憲法」の原文は、「国」が「國」になっています。
旧字体ですが、「或」の意味を調べてみると「武器を持って籠もる」という意味です。
そんな人々を「くにがまえ」で囲っているのが「國」という字だとすると、その意味はまさに専守防衛だということがわかります。

日本国憲法は、世界に誇れる「平和憲法」なのです。
「憲法九条を保持している日本国民にノーベル平和賞を」との実行委員会が発足しました。
しかし、アベ総理がいる限りノーベル賞委員会にしたら「ふざけるな」でしょうね。

それにしても頼りにならないのは国会です。
中でも自民党議員、まともな人もいる筈です。アベさんの独壇場で良いのでしょうか。
政党制である以上ある程度の迎合も已む無いことですが、いつまでも彼の独り善がりに付き合っているとしたら恥を知るべきです。

アベさんは、「国のために命を落とされた英霊に尊崇の念を示し、不戦の誓いをするため」と言って靖国参拝をしました。
そこで、拙僧はアベさんに問いたい、「あなたに英霊達のほんとうの気持ちが分かりますか」と。

彼に考えて欲しいのは、命を落とされた230万余の兵士たちの想いです。
確かに「国のため」に命を落とされたわけですが、もし今彼らから心の声が聞けるとしたら、「国に命を捧げてよかった」と言うでしょうか。

イヤ、「命を捧げたが、よかったとは思っていない」「悼んでも、称えることはしないでほしい」と言う声が拙僧には聞こえます。
「称えること」はすなわち「美化すること」です。美化することは奨励であり、戦争を肯定することです。

国のために犠牲となられた英霊が今真に望んでいることは、決して戦争の肯定である筈はありません。
あるのはただただ戦争への反省と自制と、そして平和への願いです。
だとしたら靖国参拝で韓国や中国をいたずらに刺激することを英霊が望むべくもありません。

230万の英霊に加えて、更なる戦災の犠牲になられた80万余の一般市民の精霊の声も聞こえます。
「どうか我々をあなたの妄念の道具にしないでください」と。
しかし、そんな憂いの声が彼にはまったく聞こえていません。
そんな感性に欠けた人の言う「英霊への尊崇の念」も、「不戦の誓い」も実に空々しい限りです。

だいたい東京オリンピック招致のプレゼンテーションで、福島の汚染水はコントロールされたと平気で大嘘をついたり、日本中の原発再稼働と原発の海外輸出を本気で考えている人間です。
彼には被災地を慮る感性もデリカシーもありません。

ことほど左様に彼の資質は推して知るべきです。
しかし、拙僧的にはそれほど心配していません。
アベさんの執念も徒労に終わると思うからです。
彼の暴挙を許すほど国民はバカではないし、国民の良識あるマジョリティを信じているからです。

実は今回のこの「平和ボケ症」を通して、分かった事実があります。
それは、平和ボケ患者の張本人こそ、"真の平和の尊さを知らない"アベさん自身であったということです。
しかもかなりの重症です。

さいごに・・・彼の願望は歴史に名を残すことだと言われていますが、多分その夢は叶うでしょう。
最も愚策を弄した妄念の総理大臣として。

合掌

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