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応以天。竜。夜叉、乾闥婆。阿修羅。迦楼羅。
緊那羅、摩候羅迦。人非人等身。得度者。即皆現之。而為説法。
応以執金剛神。得度者。即現執金剛神。而為説法。
無尽意。是観世音菩薩。成就如是功徳。以種種形。遊諸国土。
度脱衆生。是故汝等。応当一心。供養観世音菩薩。
応(まさ)に天、竜、夜叉(やしゃ)、乾闥婆(けんだつば)、阿修羅(あしゅら)、迦楼羅(かるら)、
緊那羅(きんなら)、摩候羅迦(まごらか)、人非人等身(にんぴにんとう)の身を以って得度すべき者には、即ち皆之を現じて、而(しか)も為に説法す。 応に執金剛神(しゅうこんごうしん)を以って得度すべき者には、即ち執金剛神を現じて、而(しか)も為に説法す。 無尽意よ、是の観世音菩薩は是(か)くの如き功徳を成就し、種々(しゅじゅ)の形を以って緒々(しょしょ)の国土に遊び、衆生を度脱(どだつ)したもう。 是の故に汝等(なんじら)応当(まさ)に一心に観世音菩薩を供養すべし。
観音さまの三十三身のその最後の八身を説いたのが本段です。
観音さまが八部衆及び執金剛神となって衆生を救われることが述べられています。
八部衆とは仏法の守護神や鬼神のことで、(1)天(2)竜(3)夜叉(4)乾闥婆(5)阿修羅(6)迦楼羅(7)緊那羅(8)摩候羅迦をいいます。
「天」は超人的な鬼神、「竜」は竜王、竜神のこと。 「夜叉」は空中を飛行し、すべての善行を妨害する悪神のこと。 「乾闥婆」は天上の音楽師であり、「阿修羅」は闘争を好む悪神のこと。 「迦楼羅」は金翅鳥とも言い、竜を食べるという巨大な鳥のこと。 「緊那羅」は半人半獣の角をもつ歌神のこと。 「摩候羅迦」は大蛇、蛇神のことです。
そして最後が「執金剛神」です。
大きな寺院などの入り口によく仁王門がありますが、その中に文字通り仁王立ちされている 仁王さまがこの執金剛神です。
金剛石とはダイヤモンドよりも硬いといわれますが、金剛とはそのような強固堅牢な意志を意味します。
その金剛の杵(きね)を手に持って悪人どもが寺へ入るのを防いでいます。
非法の者に対してはこの金剛の杵で撃退します。 そして、いつでも仏のそばにいて仏を護衛するのがおもな任務なのです。
さらに人生の様々な困難や、いかなる状況に至っても決してくじけることのない堅固な知性と感情と 意思を表しているのが「金剛」です。
火をもっても焼くことができず、水をもっても溺らせることができない鋼鉄の意志こそ執金剛神を あらわしたものです。
以上のように観音さまは三十三身に身を現じられて説法されるということですが、 では三十三身とは何のことでしょう。
三十三身とは一切衆生のことです。 ひるがえってその一切衆生を代表したものがこの三十三身ということになるのです。 つまり観音さまは一切衆生に身を現じて衆生を済度されるということなのです。
とくに本段の八部衆の最後に「人非人」として八部衆を総括していますが、この人非人とは 何のことでしょう。
その意味は、姿は人に似ていて人でないということです。 ただ仏の前に現れる時にだけ人の姿になるというのです。 だから仏にもその外見からはまったく区別がつきません。
仏にとってその区別がつかなくとも一向にかまわないのです。
それは、仏にとって善人と悪人とを差別する必要がないからです。
この意味も非常に重要ですね。そうでしょう?これこそ慈悲というものです。
さて、ではその「人非人等」とは何でしょう。
それはわれわれのこころの中に住んでいる諸天善神や鬼畜悪神などのことなのです。 つまり八部衆の正体とは人非人等の諸天善神や鬼畜悪神そのものであるというのです。
「人非人等の身を以て得度すべき者には、即ち皆之を現じて、而も為に説法す」とあるように、 観音さまはそのような諸天善神や鬼畜悪神などのさまざまなものにも姿を変え身を現じて、 われわれを救ってくださるということを説いているのです。
さてそこで問題なのは、これまで説いてきた三十三身のなかには、仏身、帝釈身のような 貴い方もあれば、夜叉身、阿修羅身のような悪神もいるのです。 八部衆の中にも善神や鬼畜悪神がいるのです。
観音さまが善神に応現されて衆生済度されるのはよくわかりますが、悪神に応現されて 衆生を救われるということは一体どういうことでしょうか。
当然の疑問ですね。
観音さまが悪神に身を現じて済度されるというその真意は一体何でしょうか。
このことは以前【観音経―その(10)】でも述べましたが、観音さまがその悪神に現じることで 悪神自身を観音さまに同化してしまうというカラクリがそこにはあるのです。
申すまでもなく、仏教は善人のためにのみあるのではないのです。 むしろ悪人程仏の慈悲を必要としているのです。 一切衆生、悉有仏性だからこそ悪人こそ救われると考えるのです。
だからこそ仏会(ぶつえ)にはあらゆる衆生が集まるべきなのです。
「しかあるに在世の仏会(ぶつえ)に、みな比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷等の四衆あり、八部あり、 三十七部あり、八万四千部あり。みなこれ仏界を結せることあらたなる仏会なり。 いずれの会(え)が比丘尼なき、女人なき、八部なき。」 「正法眼蔵(礼拝得髄)」
如来在世の時代、法会が開かれるときには男僧・尼僧・在家の男子信者・女子信者である四衆が 必ず参加しており、さらに八部衆をはじめとして、三十七部ないしは八万四千部のすべての者が 参加して仏会を形づくっているのであって、仏界とはまさしくこのようなさまざまな人々、神々、 天人などの集まりによって成り立っている。 比丘尼や女人や八部もいない仏会は真の仏会ではないのである。 と御開山道元禅師は示されています。
大事なのはさいごの「八部もいない仏会は真の仏会ではない」というお言葉です。
普通の感覚からすれば、集会というものは善人や菩提心がある人だけが集まってこそ充実すると 考えるのですが、仏会はそうではないというのです。 ありとあらゆる人々をはじめ、天人、神々、動物だけでなく悪人や悪神などを含めた生きとし 生けるものすべてが参加してはじめて集会(仏会)の意義があると明言されています。
観音さまは善神にも悪神にも応現されるということはすべての生きとし生けるものに観音さまの 命が躍動しているということになるのです。
われわれ人の心に住んでいるのは仏や菩薩だけではないのです。 鬼も餓鬼も畜生も修羅も夜叉もあらゆるもの、つまり三十三身が住んでいるのです。
油断大敵です。われわれには八万四千の煩悩があるのです。
一瞬魔がさす時、われわれの心は餓鬼や畜生や夜叉になり得るのです。
今、国は年金問題で揺れています。 社会保険庁の歴代の役人に責任感がほとんど無かった結果です。
牛肉偽装を何十年も平気で行ってきた北海道の生肉業者がいました。
親の子殺し。子の親殺し。タクシー強盗殺人。婦女暴行殺人。元公安調査庁長官の詐欺事件。 タレントの詐欺事件。
毎日毎日ひどい事件が絶えません。
どれもこれも「他人はどうでもいい。自分さえよければ」という自己中心の身勝手さや 短絡的欲望などから起こった事件です。
悪神や鬼畜の餌食になって地獄に堕ちる前にその悪神自身を観音さまに変えなければなりません。
そしてお釈迦さまは最後に無尽意菩薩に申されました。
「無尽意よ、是の観世音菩薩は是(か)くの如き功徳を成就し、種々(しゅじゅ)の形を以って 緒々(しょしょ)の国土に遊び、衆生を度脱(どだつ)したもう。 是の故に汝等(なんじら)応当(まさ)に一心に観世音菩薩を供養すべし。」
観音さまはあらゆる処にあらゆる姿で応現され皆をお救いくださるのだから、正に観音さまを 供養しなさい。その方法はただただ「南無観世音菩薩」と至誠に称名することです。と。
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| 合掌 |
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