|
 |
 |
無尽意。復白観世音菩薩言。仁者。愍我等故。受此瓔珞。 爾時仏告。観世音菩薩。
当愍此無尽意菩薩。及四衆。天。竜。夜叉。乾闥婆。 阿修羅。迦楼羅。緊那羅。摩候羅迦。人非人等故。受是瓔珞。即時観世音菩薩。 愍諸四衆。及於天。
竜。人非人等。受其瓔珞。分作二分。一分奉釈迦牟尼仏。 一分奉多宝仏塔。無尽意。観世音菩薩。有如是自在神力。遊於娑婆世界。
無尽意。復(ま)た観世音菩薩に白(もう)して言(もう)さく、仁者(にんしゃ)、我等を愍(あわれ)む が故(ゆえ)に、此(こ)の瓔珞を受けたまえと。 爾(そ)の時に仏、観世音菩薩に告げ曰(たま)わく、当(まさ)に此の無尽意菩薩、 及(およ)び四衆、天、竜、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩候羅迦、人非人等を 愍むが故に是の瓔珞を受くべしと。
即時(そのとき)に観世音菩薩、諸(もろもろ)の四衆、及び天、竜、人非人等を愍みて、 其(そ)の瓔珞を受けて、分(わか)って二分(にぶん)と作(な)し、一分(いちぶん)を 釈迦牟尼仏に奉(たてまつ)り、一分を多宝仏塔に奉る。
無尽意よ、観世音菩薩は、是(かく)の如き自在神力(じざいじんりき)ありて、娑婆世界に遊びたもう。
無尽意菩薩はふたたび観音さまに「あなた様、どうかわれわれをあわれむと思し召しになって、 この首飾りをお受けとりください」と懇願されたのです。
するとその時、お釈迦さまが観音さまに申されました。
「この無尽意菩薩、および四衆、天、竜、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩候羅迦、 人非人などありとあらゆる一切衆生を愍(あわれ)むために、この首飾りを受けとってください。」
無尽意菩薩とは字の如く、上は無尽の諸仏の功徳を求め、下は無尽の衆生を救うことを 本意とする菩薩です。 人非人とは人に非ざる者であるが、仏のところにくる時だけは人間の姿をしている者です。
お釈迦さまは観音さまに、上は無尽意菩薩から、四部衆、仏法の守護神である八部衆や さらに下は人非人に至るまでの一切衆生を愍(あわれ)むがために、首飾りをお受けに なられたらよいでしょう、と申されたのです。 「愍(あわれ)む」とは「救うこと」「済度すること」という意味です。
観音さまとはいえお釈迦さまからの申し入れを断れる筈もありません。
観音さまは考えをひるがえされて首飾りをお受けになったのです。
観音さまは、「一切衆生を愍(あわれ)むがために」その首飾りをお受けになられたのです。
「分(わか)って二分(にぶん)と作(な)し、一分(いちぶん)を釈迦牟尼仏に奉(たてまつ)り、 一分を多宝仏塔に奉る」
すると観音さまは、その瓔珞(首飾り)を二つに分けて、一つを釈迦牟尼仏にたてまつり、 他の一つを多宝仏塔にたてまつられました。
これを見ていたお釈迦さまは、「無尽意菩薩よ、観世音菩薩はこのように自在の神力をもって 娑婆世界を遊び回っているのだ」と申されました。
以上が説明ですが、本段でのポイントは次の三つです。
一つは観音さまが「一切衆生を救うために」として「供養」を受けたことの意味。
二つ目はその供養の品を二つに分けて一つはお釈迦さま、一つは多宝仏に「供養」したことの意味。
そして三つ目が観音さまが"自在の神力で遊ばれる"という意味です。
私は、この三つのポイントこそ観音経の結論であると思っています。
勿論、奇論の持論でこの三点について解説して参りましょう。
まず一つ目の、「供養」と「あわれみ」についてです。
観音さまは無尽意菩薩からの供養を一旦はお断りになりましたが、お釈迦さまからの「一切衆生を あわれみ、救う為に」というご助言でその"供養"を受け入れられました。
その「供養」と「あわれみ」とは何でしょう。
「愍(あわれ)む」とは「済度(さいど)する」ことであり「救う」ことです。
済度とは悟りの世界、仏の世界へ導くことです。仏の世界へ導くことが「救う」ことです。
つまり観音さまはお釈迦さまからのお言葉もあり、供養を受けることが即ち「一切衆生を救うこと」だと 認識されてその「供養」を受けられたのです。
では「供養」を受け入れることがなぜ「一切衆生を救うこと」になるのでしょうか。
そこで「供養」の意味をあらためて考えてみます。
供養とは尊敬する仏さまに"布施"することです。
布施についてはこれまでに何回も触れてきましたが、見返りや下心があったら布施にはなりません。
下心の有るものは"わいろ"です。わいろはすべて貪欲(とんよく)から生まれるのです。
貪欲は三毒の一つで人間にとって身を滅ぼす最も危険なものです。
布施によって、その貪欲を抑制し、物惜しみ心、ケチケチ心を捨てるのです。
布施こそ己の欲望を抑制する"修行"なのです。
ですから布施はすべて己のための修行なのです。
布施はボランティアでも奉仕でも善行でもないのです。 100パーセント己のための修行なのです。
その布施の精神があってこそ本物の「供養」なのです。
では次にその供養を施すことでなぜ救われるのでしょう。
それは供養する者と受ける者との"同化"です。
観音さまに供養するということは観音さまに同化するということです。
観音さまに同化するということは観音さまに"なる"ことです。
この「観音経講座」のはじめの方で、観音経の教えは「観音さまになるための教え」だということを 述べましたが、その観音さまになることが「同化」なのです。
観音さまに同化することで「成仏」し「救われる」のです。
以上が観音さまが一切衆生を「救うために」その清浄なる「供養」を受けられたという意味ですが、 いかがでしょうか。
次に二つ目のポイントですが、観音さまは受け取られたその供養の品を二つに分けて、 一つはお釈迦さま、一つは多宝仏に供養されましたがその真意は何でしょう。 これもなかなかの難問です。
まず多宝仏塔とは何でしょう。
多宝仏塔というのは、法華経の「見宝塔品」に説かれている多宝塔のことで、この中には 多宝如来が坐禅の姿で鎮座されてしているのです。
多宝如来とは、法華経が説かれる説き、必ず姿を現して法華経が正しいことを証明される 如来さまのことです。
一切が変化するこの娑婆世界にあって変化しないものが只一つだけあります。
それは真理の教えである「法華経」なのです。真理は永遠であり、絶対に滅びることはありません。
その「法華経」を証明することを託されたのが多宝仏なのです。
真理こそ久遠の命であり、その化身が「多宝仏」なのです。ですから多宝仏は真理の仏であるとして 「理仏」とも言われています。
これに対して釈迦牟尼仏は娑婆世界で活躍されている現存の仏さまです。
娑婆世界はすべて「現象」の世界です。現象の世界で活動されている釈迦牟尼仏は、 事象の仏ということで「事仏」とも言われています。
では本題に戻って、観音さまが無尽意菩薩から頂いた首飾りを二つに分けて、「事仏」釈迦牟尼仏と 「理仏」多宝仏に"供養"されたことの意味は何でしょう。
「理仏」「事仏」のこの「理」と「事」に意味があります。
それは、正に「理事不二」という真理を説いているのが「法華経」だからです。
「理」と「事」、これを別な言い方をすれば、「空」と「色」です。
即ち「理事不二」とは「色即是空」「空即是色」ということです。
なんとなれば「色」が釈迦牟尼仏であり、「空」が多宝仏であるから、「釈迦牟尼仏即多宝仏」、 「多宝仏即釈迦牟尼仏」ということになります。
これは、釈迦牟尼仏と多宝仏は実体は一つであるということです。 そう理屈になりますがいかがでしょうか。
つまり観音さまが釈迦牟尼仏と多宝仏とに等しく供養されたということは、宇宙は理と事で 成り立っている一如の世界だということです。 だから観音さまは方手落ちのないように供養されたということです。
あと参考までに、「理」と「事」を「体」(たい)と「相」(そう)とも表します。
「体」とは理体、本体などというように個性のない実相をいいます。
多宝如来はその真如実相の象徴です。
これに対して、「相」とは個性を具えた人格を表しますので釈迦牟尼仏はまさに人格仏の象徴です。
宇宙の実体をこの「体」と「相」で表すこともあります。
さて観音さまは釈迦牟尼仏と多宝仏とに等しく供養されたわけですが、その訳は無尽意菩薩が 観音さまに供養されたのとまったく同じ理由によるものです。
「供養」には供養する者と受ける者とが"一体になる"という業(わざ)があるのです。
同時に供養する者と受ける者とが"同時に救われる"という業があるのです。
つまり観音さまに供養するということは供養する我々はもちろんのこと、それと同時に実は 観音さまも救われているのです。
観音さまが救われるとは意外だと思われるかもしれませんが、供養する者と受ける者とが 一体になる訳ですから当然の理屈ですね。
救うということは救われるということであり、救われるということは救うということです。
観音さまは「菩薩」ですね。
言うまでもなく菩薩とは本来仏でありながらあえて娑婆世界に降りてきて衆生済度のため黙々と 修行を続けておられるお方のことです。
観音さまは釈迦牟尼仏と多宝仏に自らの修行として供養されたのです。
そしてその功徳により観音さまは釈迦牟尼仏と多宝仏とに"同化"され"救われ"ました。
これは観音さまが無尽意菩薩から受けた供養を釈迦牟尼仏と多宝仏に供養された結果、 無尽意菩薩も釈迦牟尼仏も多宝仏もそして観音さま自身も救われたということです。
この理論こそこの観音経の精神なのです。
つまり、我々が観音さまに供養するということは、その供養が観音さまはもとより、お釈迦さまや 多宝仏さまにも届くということです。
お釈迦さまや多宝仏さまに届くということは、この宇宙の理仏、事仏に届くということです。
それはまたこの宇宙の理体、相体つまり有情非情の全てが一つの供養で救われるということです。
清浄無垢なる「供養」にはそんな妙力があるのです。
そしてお釈迦さまがさいごに申されました。
「無尽意菩薩よ、観世音菩薩はこのように自由自在の神力をもって娑婆世界を遊び回っているのだ」と。
この一句がこの観音経の結びとなっています。
「自在」は完全自由ということであり、「神力」は超能力であり、「遊ぶ」とは一切のこだわりも 囚われもなく無碍無心に飛び回るということです。
お釈迦さまはさいごに、「無尽意菩薩よ。これまで縷々言ってきたように観世音菩薩とはこの 娑婆世界にあって衆生済度のために自由自在の超能力をもって飛び回っている斯くも素晴らしき 菩薩なのですよ」と絶賛されたのです。
この娑婆世界にあっていつでもどこでも悩みや苦しみを持った人の要請があれば即座にその人の 元に赴きその人の畏れの心を無くしてくださるというそのような超能力を持っている菩薩。 それが観世音菩薩なのです。
繰返しになりますが、その観音さまにおすがりするには、ただただ一心に"南無観世音菩薩" "南無観世音菩薩"とお称えするのです。
布施することだけが供養ではなく、一心に称名することも立派な「供養」なのです。
その至誠の称名に応えて観音さまは必ずやって来てくださいます。
そして観音さまが自分の中に入り込み、自分が観音さまになるのです。
観音さまの大慈悲心に救われるということは「観音さまになること」なのです。
その教えがこの観音経なのです。
|
| 合掌 |
|