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| 仏教に関する・・・ |
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| ----------------------------------------------------------千葉県 30歳代の女性からのご質問 |
 | 四苦八苦の五蘊盛苦(心身から生じる苦しみ)とはどういう苦しみなのでしょうか? 五蘊(色・受・想・行・識)が絡んだ苦しみなのでしょうが、詳しく分かり易く教えていただければ嬉しいです。
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「五蘊盛苦」についてお話します。
「観自在菩薩が深般若波羅蜜多を行ずる時、五蘊は皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したもう」
これは般若心経の最初の言葉です。
「観音さまが深い修行に入られ五蘊は皆空だと悟られたときに一切の苦厄から解放された」という意味です。
般若心経の主旨が初めに示されている言葉ですが、同時にこれは仏教の基本理念でもあるのです。
「五蘊は皆空なり」と悟ってこそ一切の苦しみから解放されるというのです。
では五蘊とは何でしょう。
「蘊」(うん)とは「たくわえ」とか「集まり」とかの意味です。
仏教では世界は五つの集まりで成り立っていると考えるのです。
その五つの集まりが、色・受・想・行・識なのです。
「色」とは物質的存在という意味です。形あるものの全てです。
あとの「受・想・行・識」は「心」の世界を意味します。
「受」は、感覚とか知覚などの感受作用を意味します。 暑いとか寒いとか、旨いとかまずいとかの五感による感覚です。
「想」は、「受」で受けたものを心の中でイメージすることです。
「行」は、イメージを意志に移行させることです。
「識」は、判断することです。
般若心経はこの五蘊がすべて「空」であると説いています。
この世の一切は物体という「色」と心である「受・想・行・識」で成り立っており、その全ての実体は「空」であるというのです。
それを悟ってこそ「一切苦厄」を「度」せるのであり、本当の安楽が得られるというのです。
ではなぜ、「空」を悟ることが救いになるのでしょうか。
人の苦しみ悩みのもとになるのは、まず「肉体」にあると考えられます。
肉体は物質ですから諸行無常の道理に従って常に変化しています。病気や老化が無縁な人などいません。
肉体の変化による悩みや苦しみは必ずやってきます。これは人としての宿命です。
人にとって病気や老化による悩みや苦しみはほんとうに辛いものです。
それと同じようにあるのが心からくる悩みや苦しみです。
そのすべては渇愛によるものです。それが、嫉妬、憎悪、貪欲を引き起こすのです。
その苦しみ悩みのすべては「受・想・行・識」の中で生まれるのです。
だとすると、人間生きている以上様々な苦しみから逃れることなどできないわけです。
その通りなのです。これこそ人間の人間たる宿命なのです。
ただし、その現実のなかでお釈迦さまはそれでも救われる道を発見されたのです。
それが、「行深般若波羅蜜多」での「悟り」なのです。
その内容が明示されているのが般若心経であり、その主旨は「五蘊は皆空なり」と悟ることであるのです。
五蘊が空であることをしっかり理解できれば、苦そのものの実体などどこにも無いということがわかるのです。
一切が空である以上そこには「苦」など存在しないということです。
お釈迦さまは人生は全て苦であるが、その四苦八苦つまり「五蘊盛苦」から救われるには「五蘊皆空」と悟ることにこそあると説かれたのです。
そのためにはただただ「般若波羅蜜多」を「修行」することです。これが唯一救われる「法」なのです。
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| 合掌 |
| | (※はじめこの件を載せるかどうか迷いました。今の時代「命」が大変軽んじられています。 命の尊さについて考えていただければと思います。) |
| ----------------------------------------------------------熊本県 十代の女性からのご質問 |
 | はじめまして。
つい最近、自分達の勝手でせっかくできた命を無駄にしてしまいました。
私は新しい命が自分のお腹にあるということが嬉しくてずっと産む方向で考えていました。
しかし、私も相手もまだ学生ということもあり相手と両方の親に反対され必死の訴えも届かず、 泣く泣く中絶ということになってしまいました。
私は水子供養というものがあると知って絶対に供養しにいきたい、と思って彼に話したところ、 「水子供養はしないほうがいい」と言っていました。
以前、彼のお母さんが供養しに行ったときに御住職の方からお話を聞いてお母さんは「しないほうがいい」と 思ったらしく供養はしないで帰ってきたと言っていました。
彼から聞いたので御住職にどんなことを言われたのかは分からないのですが、したほうがいいのか しないほうがいいのか悩んでいます。
私としては、赤ちゃんがお腹にいると分かった時点で嬉しくてすごく幸せで今まで自分を一番に考えて いましたが赤ちゃんの事を一番に考えるようになり私の一番の宝物になりました。
それに、いろいろな事情で一人で考え込んでいましたが赤ちゃんがいることで大きな支えになり 勇気をもらいました。私はこんなにも赤ちゃんに幸せをもらってたくさん助けられました。
なのに私は赤ちゃんに何もしてあげることができなかったんです。
それどころか最悪なことに赤ちゃんの命を無駄にしてしまいました。
赤ちゃんは今、どうしてるだろうか?ちゃんと天国に行けただろうか?
今すごく赤ちゃんのことが心配です。 なので、どうしても供養に行きたいと思っているのですが、どうしたらいいのでしょうか?
話のまとまっていない読みにくい文章ですみません。
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西光寺住職です。
大変辛い経験をされましたね。私もこのお話を伺って本当に残念でなりませんでした。
あなたも彼もまだ若すぎるというだけの理由だったとしたらまったく理不尽なことです。
確かに世の中にはいろいろな事情や理屈があるでしょうが、私はどれもはなはだ疑問に思うのです。
それは人の命が否定される理由など絶対にある筈はないからです。
誤解の無いようにあなたやあなたの赤ちゃんの立場から申し上げたいと思います。
それとこれから申し上げるのはあくまで私個人の見解ですからその点もご了承ください。
人間は皆人に生まれたいという尊い宿業宿縁のお陰で生まれて来れるのです。
ですから赤ちゃんにとって自分が生まれる権利は誰にも邪魔されるものではないのです。
「 私は新しい命が自分のお腹にあるということが嬉しくてずっと産む方向で考えていました。」
「嬉しくてすごく幸せで今まで自分を一番に考えていましたが、赤ちゃんの事を一番に考えるようになり私の一番の宝物になりました。赤ちゃんがいることで大きな支えになり勇気をもらいました。私はこんなにも赤ちゃんに幸せをもらってたくさん助けられました。」
あなたの優しさと幸せな気持ちが率直に語られていて大変感動しました。
そんなあなたの気持ちも理解されず若いあなたはただ大人達の言うことに逆らえなかったわけです。
仕方なかったとは言えあなたの心は決して癒されませんね。よくわかります。
そんなあなたの心が少しでも癒されるためには、あなたも希望しているように供養をすることでしょう。
彼のお母さんは大きな誤解をされているとしか思えません。 供養を否定する理由などまったく無いからです。
水子の命もまったく人の命です。 水子の命に想いを寄せて冥福を祈ってこそあなたの心は癒されるでしょう。
あなたの心が癒されなければ決して水子も癒されません。
供養とは「同事行」と言い、「これから一生私はあなたと共に生きていきます。」という契りを結ぶことです。
その一体感で水子もあなた自身も安らかになれるのです。その「安心(あんじん)」をもって「成仏」するのです。
しっかりした供養は智慧と勇気を与えてくださいます。
あなたの幸せを祈ります。
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| 合掌 |
| --------------------------------------------------------佐賀県 20歳代の女性からのご質問 |
 | (※一部修正させていただきました) 8年ほど前に水子供養をしました。学生で生めなかった為です。
先日、霊視が出来る方から水子が成仏できていないと言われ今大変不安な気持ちです。
以前供養をしていただいたお寺の名前も既に分からない状態です。
別の寺院でもう一度水子供養をした方が良いのでしょうか?
どうかよろしくお願い致します。
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水子の霊を抱えている方は、宗教家や霊能者から何か言われるとそのほとんどを鵜呑みにしてしまします。
「成仏していない」などと言われると大変な不安に陥ります。それが「宗教」の怖さです。
なぜそのようなことが起こるかと言えば、それは、自分が行った「供養」に自信が持てないからです。
多分あなたの場合もそうかもしれません。
ところで、あなたはあなたの水子が今どのようにしているかわかりますか?
多分分らないでしょう。そこがいい加減なことをいわれる隙になっているのです。
残念ながら私もあなたの水子は成仏していないと思います。
でも、これから私の言うその「成仏していない」というほんとうの意味をしっかり理解してくだされば大丈夫です。
まず、あなたは、「水子の供養」をどのように捉えているのでしょうか。
「早く成仏させて葬りたい」「水子とは早く縁を切りたい」「早く忘れて出直したい」「身を清めたい」などと、 もし思っていたらそれは大きな間違いです。
水子はあなたに縁を切られて喜ぶと思いますか。 そうだとしたら水子は汚らわしいイヤな存在になります。
もしそのような気持ちがちょっとでもあったらその水子は浮ばれないでしょう。永遠に成仏しないでしょう。
ではどうすれば良いのでしょうか。
それにはどうすれば水子が喜ぶかを考えることです。
水子の本当の供養とは、縁を切るのではなく、新たに縁を結ぶのです。
どういうことかといいますと、水子を自分自身の中に完全に取り込むことなのです。
切り離すのではなく水子と自分が一体になることです。
「あなたとこれから一生共にします。決して離しません。だからわたしも護ってくださいね。」という新たな 契りを結び、新たな気持ちを持つことです。 新たな縁が始まります。
水子はあなたの分身です。他人ではありません。 その関係は切っても切れない永遠の関係なのですから。
あなた自身がしっかり水子の霊をあなた自身の中に取り込んでしまうことでその水子は完全に 安心(あんじん)の世界、すなわち仏の世界に入るのです。 これをもって「成仏」というのです。私が言う「成仏」とはそうゆうことです。
「霊」に形や重さはありません。何の邪魔にもなりません。
これかは一人ぼっちではない、いつでも一緒という気持ちから「しっかり供養している」という自信が 生まれるのです。
そしたら「その水子が今どうしているか」がわかるはずです。
もうどんな人から何を言われても不安になったり迷ったりすることはなくなります。
「ほんとうの供養」とはそうゆうことです。
水子供養も基本的には先祖供養と変わりません。 先祖は切り離せませんものね。それとまったく同じことです。
「仏教は心の科学」です。迷信や妄信にだまされないためにもしっかりした「信仰心」を持つことです。
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| 合掌 |
 | ご丁寧なお返事ありがとうございます。
学生時代からずっと気になっていた事なので、返事を頂き、精神的に解き放たれた感じがします。
勇気を出して質問させて頂いて本当に良かったです。
今後は、教えの通り水子と共に生きていこうと思います。
本当にありがとうございました。
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| --------------------------------------------------------熊本県 40歳代の女性からのご質問 |
 | ご住職様はじめまして。
「隻手音声」の法話で『実体の無いものは「妄想」なのです』とありました。 「実体」についてお尋ねさせてください。ちょっと逆さに考えてみました、 どんなものが「実体のあるもの」だろうと。答えが出てきません。 「実体」という言葉自体が、無いものに名前をつけた至極怪しいものに思われてきました。 ご住職様が使われた意味では、「実体」とはどういう性質のものなのですか?
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 | ご質問ありがとうございます。
『実体の無いものは「妄想」なのです』についておこたえします。
あなたのご質問も無理はないと思われます。 確かに「実体の無いもの」なんてこの世に存在するはずはありませんからね。
多分「実体」の解釈の相違による誤解だと思います。あなたが間違っているのではありません。
私の説明下手だと思います。「言葉の意味の実体」と「本質の意味の実体」との混同だと思います。
まず「言葉の意味の実体」からお話します。
例えば「実体の無い会社」というものをよく聞きますが、それは名前だけの幽霊会社です。
つまり名ばかりで「実体がない」のです。「実体のないのは幽霊会社」というその意味とまったく同じです。
「幽霊会社」を「妄想」に置き換えてみてください。
つまり「名前としての実体」が無いということです。多分これでご理解いただけるかと思います。
更に言えば、子供がよく地球に赤道があるということで実際にそこに赤い線があると思い込んでいたということをきくことがありますが、それは実際には無いものを有るものと信じていたということですから「妄想」です。
「赤い線」という名前ばかりの「実体(実存)のないもの」を信じていたということになります。
「赤い線という実体(実存)」のないものを信じることは妄想だという表現になっているのです。
赤道は架空のものですね。それと同じように人間社会は都合上様々な架空のものをつくりあげてきました。
例えば暦がそうです。大安、仏滅、友引といった「印」や「証拠」など実際にはどこにもありません。
今日はお元旦だという声がどこからか聞こえてくることもありません。
現在何時何分だという証拠もどこにもありません。
つまり時間も曜日もその「意味としての実体」が無いということです。
大安も仏滅もお正月も節分もその意味としての実体は無く、「本質としての実体」はまったく「同じ」なのです。
どうかそのように意味合いを区別されて御理解いただきたいと思います。
さいごになりますが、禅の目的はただ一つ宇宙の智慧である「真実の姿」つまり「宇宙の実体」を知ることにあることは間違いありません。
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| 合掌 |
 | (※一部修正させていただきました) 早速お返事くださり、ありがとうございます。
赤道の例は大変分かりやすかったです。
自分にまだ混乱があるように思われますので、もう少しお尋ねさせてください。
「言葉の意味の実体」と「本質の意味の実体」との混同ということですが、「本質の意味の実体」は、 凡夫には普通捉えられないものと解してよろしいでしょうか。
「言葉の意味の実体」とは、五感で外的に捉えられる対象物(見えるもの、さわれるもの、味わえるものなど)があってそれに名称が付けられたもの、ということになりましょうか。
赤道とか希望とかは、ただの概念で五感では捉えられないという意味で、言葉の意味でさえ「実体が無い」、そういうことですか?。
「万物は刻々変化しているので実体はない」という言説がありますが、これも言葉の意味のレベルで実体が 無いと言っていることになるでしょうか?
よく、「自我という実体は無い」という言説を聞きますが、この場合の「実体」という意味がこれまで私には よく分かりませんでした。 「言葉の意味の実体」と「本質の意味の実体」とを混同していたのかもしれません。
自我の場合、やっかいなことに五感で捉えられるような感じがするので、言葉の意味のレベルでは実体が あるように感じます。 手足は触ることができるし、褒められたり侮辱されたりすればはっきり体に感覚が生じます。
「自我という実体は無い」という言説の場合、「本質の意味の実体は無い」ということを言っているのですか?
「本質の意味の実体」が凡夫には捉えられないものであるように、「本質の意味の実体が無い」こともまた 凡夫には捉えられない、と理解していいでしょうか?
よろしくお願いします。
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 | あなたの混同されるのもよくわかります。
どこまで説明できるかわかりませんが私の考えを述べさせていただきます。
「言葉の意味の実体」とは、おっしゃるとおり、五感で捉えられる対象物に対する「概念」です。
「万物は刻々変化している」というのを「諸行無常」という意味に解釈しますと、その場合の「万物」は 「形あるもの」であり「言葉の概念」ということになります。
この場合の実体は「変化」を指しているので「言葉の意味」の「実体」になるかと思います。
「自我という実体は無い」という「実体」の意味も「言葉の意味」を指しているかと思います。
「赤道という実体は無い」と同じです。
「自我意識」というのはただの「概念」だという意味です。
ちなみに「自我」の「本質の意味の実体」は「空」です。
万物の実体(本質)も自我の実体(本質)も宇宙の実体(本質)も同じであると説いているのが般若心経です。
「色」は人の思ったり感じたりする五感、すなわち「概念」を指します。
「空」はその「本質」、つまり「実体」を指します。
宇宙の実体(本質)をズバリ言い切っているのが正に般若心経だと言えるでしょう。
概念も本質もその「実体」は正に一体であるというのが「色即是空」という言葉です。
この場合の「実体」は勿論「本質論」の意味です。
生きているという「概念」は無く、死という概念も無いというのが「不生不滅」ということです。
汚いとかきれいとかはただの「概念」であり、実体(本質)は同じだというのが「不垢不浄」ということです。
増える感覚も減る感覚も「概念」であり、眼でみるもの、耳で聞くもの、鼻で嗅ぐもの、舌で味わうもの、 身で感じるもの、意(意識)するものはみな「概念」であり、本質は「空」というのが「実体」であるというのが、 「不増不減」「無眼耳鼻舌身意」の意味です。
確かに『「本質の意味の実体」が凡夫には捉えられないもの』であるからこそ修行するのです。
修行とは正に「宇宙の実体(本質)を悟ること」にあるのです。
その宇宙の実体を理解することこそ「般若の智慧」を会得することになるのです。
これからのご精進をご祈念いたします。
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| 合掌 |
 | ご住職様
面倒な問いにお答えくださり、ありがとうございました。
知的・論理的レベルでどうもすっきりいかなかったのが、すっきりしました。
概念と実体について、『汚いとかきれいとかはただの「概念」である』というのは、論理として問題なく捉えられていました(実際は、トイレ掃除は嫌いですが。・・・好き嫌いも概念ですね)。
『眼でみるもの、耳で聞くもの、鼻で嗅ぐもの、舌で味わうもの、身で感じるもの、意(意識)するものはみな「概念」である』という無眼耳鼻舌身意のご説明が、私にとって大変新鮮で、これで『生きているという「概念」は無く、死という概念も無い、増える感覚も減る感覚も「概念」である』も全部論理的にすっきり行きました。
知的・論理的レベルでの理解に過ぎませんが、少なくともそのレベルではやっともやもやが取れました。
「真理は論理的だが、論理は真理ではない」という言葉を聞いたことがあります。 この言葉も私には本当かどうか知る術は無いのですが、「本当らしい」という根強い感はあったので、論理的にすっきりすることは自分には大変ありがたいです。
実に「やっと」、やっとやっともやもやが取れました。ありがとうございました!
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| --------------------------------------------------------岡山県 30歳代の女性からのご質問 |
 | お仏壇にあるお位牌のうちの祖父の名前の字が 間違っている事に先日気が付きました。
お位牌なので、勝手に書き換える訳にもいかず、そのままで良いという親戚の者もおりましたが、 新しくお位牌を購入したほうがよいのか迷っています。
祖父の名前が違っていたという事について、亡くなってから誰も気が付かず、ずっとその間違った名前の お位牌に 手を合わせていたのかと思うと、申し訳なくて仕方がありません。
あと、祖父・祖母/高祖父・高祖母が亡くなってから50年以上たっております。
没後50年経たお位牌は お寺様で魂抜きをして頂き、お焚上げいただくのが良いと聞いたのですが、 本来はどのようにさせて頂くのがよろしいのでしょうか。 お恥ずかしい話なのですが ご返答のほどお願い致します。
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 | まず、祖父の名前が違っていたという件ですが、俗名のことですから過去帳の中でしっかり訂正しておけば よろしいでしょう。特に心配は要りません。
長い間「別人」を拝んだわけではありませんので「失礼」はありません。
あと没後50年以上のお位牌についてですが、50年以上経ったお位牌は先祖代々のお位牌に合祀されると よろしいでしょう。
過去帳がしっかりしていれば問題ありません。
古いお位牌が沢山あれば整理されることで仏壇の中がすっきりします。
よく、汚れていたり、朽ちていたり、煤で読めなかったりするお位牌を見かけますが、お位牌は仏様の身体です。
いつもきれいにしておくことが大事です。
お位牌は古くて汚れていてもかまわないというのは仏様に失礼なことです。
合祀した後のお位牌はお寺に預ければよろしいでしょう。
あとはそのお寺でよろしく扱ってくださいます。
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| 合掌 |
| --------------------------------------------------------静岡県 30歳代の女性からのご質問 |
 | 仏壇に写真を置いて良いと聞き 安心しました。
テレビの影響はすごく、知人のアドバイスはテレビでHさんが言ってたからそのようにしないとダメと言います。
最低限守らなければいけないことは守り他は聞き流したいのですが、その判断は難しく混乱してしまいます。
またわからないことは質問させて頂きます。
先日も質問したのですが送り火を15日に行う家と16日があります。
お盆は16日までだと思うのですが家も15日に行います。
違いはなんですか?
送り火は遅い時間に行うと言いますが、22時頃では遅すぎますか?
親戚の家では19時には終わらせると言われ、遅すぎると暗くてご先祖様が迷ってしまうからでしょうか?
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 | まず、送り火についてですが、確かに15日に行うところと16日に行うところがあります。 その違いは15日はお盆の最終日のその日の内に送るということであり、16日に送るのは盆明けの夜に 送るということであり、それだけのことです。
どちらが良いとか間違っているとかの問題ではありません。
その土地風の風習によるものですから、それに従えばよいことです。
時間の件ですが、夕方もまだ明るいうちに焚く家もあれば暗くなってから行う家もあるようですが、 これも時間による問題はまったくありません。
ただ火を焚くという意味からすると、まず仏様は暗くなってから行動を起こされると考えるからです。
迎え火はその家の所在を知らせると同時に歓迎の意思を表すものであり、送り火は冥福と感謝を 表すものです。
火を焚く意味を効果的にするにはやはり多少でも暗くなってからの方が自然ではないかと思います。
特に遅い時間はだめだということはありませんが、できたら黄昏から八時頃までに済ませるのが よろしいのではないでしょうか。
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| 合掌 |
| --------------------------------------------------------静岡県 30歳代の女性からのご質問 |
 | 両親が亡くなり 仏壇に小さな写真を置いてます。
お線香をあげ写真に話しかけてるのですが、ある人が仏壇に写真を置いたら成仏できないと言います。
他にも 身内に不幸がおきるとか?
位牌の並べる順番もあるそうですが人によって言うことがいろいろでどうしたらいいか悩みます。
決まりはあるのですか?
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 | 西光寺です。 仏壇に写真を置いてはいけないということはありません。
心配しないでください。何の根拠もないことです。
そのようなことで身内に不幸ごとなど起きるわけはありません。
その人に理由を聞きましたか?
根拠の無いものは妄想や迷信、狂信にすぎませんから気を付けてください。
位牌の順番についても、特に問題はありません。
ただバランス感覚は必要だと思います。
御本尊さまを中心にして両祖さまがきます。そのつぎに御先祖さま。
その次からは古い仏様から新しい仏様と続いてきます。
基本的には仏様は皆平等ですが平等の中にも序列はあるものです。
たとえば人権は平等ですが親と子供にはそれなりの位と序列がありますね。それと同じことです。
序列は秩序ですから大切なことです。
宗教には正しい認識が必要です。
根拠のない迷信に惑わされないためにも正しい信仰が必要です。
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| 合掌 |
| --------------------------------------------------------千葉県 30歳代の女性からのご質問 |
 | 親が亡くなりお墓を新しく建て替えようと思い、本などでいろいろ調べたらお墓の周りに囲いを作らないと ダメとか、先祖代々のお墓を真ん中にしてそれより大きなお墓はダメとか・・
テレビでもある人がいろいろ言ってますが何か注意すべき事はありますか?
先祖代々のお墓の他に小さいお墓もいくつかあり、それも先祖代々にまとめるべきとも書いてありましたが、 お墓の土地が広いのでそのままにしてはだめでしょうか?
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 | お墓のことでいろいろ言う人は実に大勢います。
方角がどうの、大きさがどうの、形がどうの、質がどうの、文字がどうの、とキリがありません。
どれも実に科学的根拠のないものばかりです。
確かに宗教は科学とはちがいますが、宗教は「心の科学」なのです。
迷信と科学を見極めることが大事なのです。
善からぬ輩や悪い迷信にひっかかるととんでもないことにもなります。
悪い迷信か正しい見識かを見極めることが大事なのです。
それには正しい宗教としっかりとした信仰が必要なのです。
お墓にとって大切なことは御先祖様に対する敬慕と感謝の「心」です。
お墓の様子を見るとそのお墓の施主さんの心が伝わってきます。
当山の墓地をみても実に様々です。
いつもきれいにされているお墓をみるとこちらの心まで和みます。
きっとお家の仏壇もきれいにされているのだろうと想像できます。
お仏壇やお墓を大切にされている家は「家内安全」な証拠です。
また、家内安全だからこそお墓や仏壇を大切にされる余裕があるのでしょう。
いずれにしろ仏様ご先祖様の供養と家内安全は別のものではないということを 心すべきでしょう。
結論としては、お墓は大きさや形や質が問題ではありません。
ご先祖様への報恩感謝の心があるかどうかが問題なのです。
「心の科学」ということを考えてみて、あなたの心の篭ったお墓をアレンジしてみてください。
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| 合掌 |
| --------------------------------------------------------埼玉県 50歳代の男性からのご質問 |
 | 和尚様 一つ質問をさせてください。 私は近くの曹洞宗のお寺で毎週参禅会に参加させていただいております。 曹洞宗の坐禅は只管打坐、始めも終わりもなくただ座ることだと理解しております。 その中で「祈り」というものをどう捉えていったらよいのかわかりませんでした。 いや、今でもわかりません。
曹洞宗のお経の中に観音経がありますがそれが坐禅とどう結びつくのかわかりません。 御寺のHPに観音経の解説があり「特に現実の苦しみから救われたいと願うならば、 心から自己の全存在をかけて至誠にその御名を称えなさいということです」と書かれてあるのをみて驚きました。 私の理解であれば念仏系の宗派の教えではないかと思ったからです。 坐禅と祈り、観音経がどうしても結びつきません。 同じような質問を曹洞宗宗務庁にぶつけてみましたが未だにお答えはいただいておりません。 もし何らかの形でお教えを賜れれば幸いです。
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 | ご質問にお応え致します。
座禅と祈りの関係がどうしてもご理解できないとのことですね。
あなたのご質問は多くの人が持っている至極もっともな疑問だと思います。
でも禅の世界から言えば初歩的な問題といえるでしょう。
確かに観音経は一見祈りを説いたお経です。
しかし、観音経はただの祈りと奇蹟を説いたお経ではありません。
さとりの方法が説かれてあるのです。
あなたは「観音さま」と「祈り」と「あなた自身」の間にどうしようもない区別や差別感を持っているのです。
ズバリ言えば、その区別感、差別感こそが「迷い」であり「煩悩」なのです。
でもこれは普通のことですよ。
しかし座禅をする人である以上、是非この「普通」から脱却したいものですね。
多分あなたは観音さまという存在を「神様」というような認識でいるのではありませ んか?
観音さまに祈るということは神様に祈るというようなイメージを持ってはいませんか?
それがまったくの間違いです。仏様や観音さまや地蔵さまは神様ではありません。
では仏様とは何でしょう。仏様とは全宇宙そのものなのです。
これが説明ではなかなか難しいのです。だからこそ自分自身で体験し体得するしかないのです。
その方法にいろいろあるのです。
その一つが座禅であり、その一つが念仏であり、祈りであるのです。
次にあなたが持っている大きな問題は、座禅と祈りはまったく別ものだという観念です。
あなたは座禅は自力であり、祈りは念仏という他力であるとの認識ですね。
確か「常識」ではそのとおりかも知れません。が、だとしたら自力と他力の違いは何ですか。 何処が違いますか?
違いがあると思っているその認識こそ「煩悩」であり「妄想」です。
この認識である以上「真実」にはまだまだ「天地の差」がありますね。
結論を言えば、坐禅と祈りは全然矛盾していませんし、坐禅と祈りは別物ではないということです。
どうです。驚きでしょう?
お釈迦さまはなぜ他力の教えである阿弥陀経、無量寿経などを説かれたと思いますか。
「法話・極楽」のページにも書いてありますが、入り口が一見違いますが向かっているゴールは まったく同じ「悟り」なのです。
悟りに自力も他力の別は無いのです。すべて同じゴールに続いているのです。
お釈迦さまの狙いは只一つ「観音さまとはあなた自身ですよ」ということを知ってもらいたいのです。
つまり「観音さま」と「あなた」と「祈り」の間に何の区別も分別も無くなった時こそ観音さまの「本当の姿」 「実体」が分かった時であり、それを「悟り」と言うのです。
観音経を理釈で解釈するとはそうゆうことです。
一切の区別や差別のない世界、それを感得した時が「悟り」であるといいましたがその様子は 「般若心経」にしっかり説かれています。
「ほとけ」「浄土」「涅槃」「彼岸」「極楽」の世界、「安楽の世界」の出現です。
一心に観音さまを称名するということは、ちょうど「無字の公案」に向き合うことと同じです。
「無ー」「ムー」「MU-]と称えることは一生懸命に「南無観世音菩薩」と称えることとどこが違いますか?
(ちょうど今月の「法話」は「無字の公案」を予定していますので是非看てください。)
「観音さま。観音さま。観音さま・・・・・・」と無我夢中で称えることで自分が観音さまになるのです。
そして自分が観音さまと同じだと感得した時こそ「無字の公案」が透過した時です。
すなわち座禅も祈りも同じだということになりますね。
だから只管打坐は難しいのです。ただボーと坐っていても駄目なのです。
「非思量底を思量せよ」とはだだ何も考えないというのではないのです。
考えない「ところ」をちゃんと「考える」のです。
それが「現成公案」を追求することなのです。
しっかりした方法と目的で座らなければ時間の無駄になるということです。
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| 合掌 |
| ----------------------------------------------------静岡県 40歳代の女性の方からのご質問 |
 | 仏壇の中のことで教えてください。
お位牌だけでもいいのでしょうか? また、最近は関西では仏像・関東では掛け軸が主流とお聞きしましたが、 仏像と掛け軸の違いを教えてください。
どちらにするか家族でもめてしまっています。
お願い致します。
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 | お仏壇の中身についてはいろいろな考えがあると思いますが、基本的なことを申し上げます。
まず、お仏壇とは「ほとけさま」を祀るものですが、お位牌だけでも良いのかとのご質問ですが、 悪いとは言えませんが、十分とも言えません。
それは御本尊さまがあってこそ御先祖さまが護られているからです。
ですから仏壇の中心には御本尊さまがあることが望ましいのです。
禅宗でしたらお釈迦様です。真言宗でしたら「大日如来」、真宗でしたら阿弥陀さまなどなどです。
その場合、像でも掛け軸でもどちらでも結構です。優劣はありません。
「仏様」である以上そのものの大小や質によっての差別は無いからです。
あとは、感覚や気持ちの問題でしょう。
なにより大切なことは「信心」です。
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| 合掌 |
| ----------------------------------------------------------30歳代の男性の方からのご質問 |
 | 最初にチャレンジするのに適した公案を教えてください。 また、その公案にはどのように向かうべきでしょうか?
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 | 公案についてのご質問にお答えいたします。
公案には古則公案から現成公案があり、それは総て三宝印(諸行無常、諸法無我、涅槃寂静)を 悟るための修行の手段として本来師匠から付与されるものです。
およそ一千八百則ともいわれていますが現成公案を考えるとその数は無限と言ってもよいでしょう。
つまり基本があって応用があるということです。
公案は見性(けんしょう)するための手段でありますが、基本はあくまでも座禅のなかで単提(たんてい) されるものです。
その応用が現成公案であり、それは宇宙の悉界一切総てが公案であると捉えるものです。
公案については「無門関」や「碧巌録」などがその代表的なものですが、どれも解説書が多く市販されて いますのでそれを参考にされたらよろしいでしょう。
ただし公案とは本来説明や解説するものではありません。それは解説で到底解るものではない という意味です。
実際お師家さんの書かれた解説をみても本当の‘ところ‘は書いてありません。
書いてないというより‘書けない‘のです。
公案とは‘考えて‘理解するものではないからです。
公案とはそもそも‘考える‘という人の分別意識からの‘開放‘と一切の‘理屈‘を捨て去った実相の世界を ‘体験‘することをねらったものなのですから。
それと公案は無限にあるといいましたが、一つの公案を完全に会得したときにはそれは同時に総ての 公案を看破したことにもなるのです。
では何故沢山の公案があるのでしょう。 それはいろいろな角度側面から見性の深さと確信を求めるからです。
公案は個人で勝手に取り組んで勝手に自己合点するものではありません。 公案には必ず「証明」してくれる人が必要なのです。それがお師匠さまです。
公案はお師匠さまより与えられお師匠さまの室に入りその答を示し認可されてはじめて透過したことに なるのです。
当ホームページの「法話」に「隻手の声」の公案について載せてありますが、これは古則公案では ありませんが、有名なだけではなく実に象徴的な公案だと私は思っています。
それに公案に難易度はありませんが、これは比較的解り易いものだと思います。
片手の音が聞こえたらこの公案は「合格」です。あなたはどう証明しますか。
公案の代表的なものといったらまず「無字の公案」でしょう。
「『無』とは何か」という公案です。これは無門関の中にある公案です。
公案禅の指導の中では最初に付与される公案ですが、実はこれがなかなかの難問なのです。
これこそ真眼子のあるお師家さまに師事しないとなかなか解けない公案です。
いずれにしろ公案に参じるにはしっかりとした師匠に師事することです。
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| 合掌 |
| ----------------------------------------------------------千葉県の男性の方からのご質問 |
 | 禅には座禅以外にも、立禅、動禅というものがあると聞きました。 お差支えなければ、ご教授願いたいのですが。
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 | 禅とは「禅定」(ぜんじょう)の意味ですが、それは座る形が基本なのです。
また座禅の座を「坐」の字で書くこともあります。 「坐る」という字は土の上に人と人が向かい合うという意味です。
「坐」には「まだれ」がありません。 「まだれ」は屋根の意味ですからそれは屋根が無い外で坐るという意味でしょうか。
お釈迦さまはその昔野外の菩提樹の下で坐禅をしました。
そんなところから「坐」の字にこだわる人もいますが、私は個人的にはどちらでもいいのではないかと 思っています。
さて、ご質問の主旨ですが、禅には座る禅以外に「立禅」と「動禅」があるかということですが、結論から申しますと立禅も動禅もあります。 さらに申せば食べる禅もあれば寝る禅もあります。泣く禅もあれば笑う禅もあります。
歌う禅もあれば「糞する禅」(ごめんなさい)もあります。
決して冗談で申しているのではありません。
禅とはつまり生活総てだと捉えるべきなのです。
生活総ての基本が「座禅」に始まるべきだということです。
それは「座禅」を総ての生活に応用することで「禅的生活」を送ろうという意図です。
ですから禅は形において限定されません。
では「禅」とはなんでしょうか。
それを一言や二言で言うことは難しいことですが、あえて一言で申せば、「なりきり」ということです。
「なりきり」とは無我無心の境地であり、これこそ悟りの世界に最も合理的に通じる手段なのです。
悟りの世界はこの「なりきり」の境地が入り口になっていると言ってよいでしょう。
その「なりきり」を狙った公案こそが有名な「無字の公案」なのです。
「なりきる」ことで「一切皆空」「諸法無我」「涅槃寂静」と言った「世界」を感得することを狙っているのです。
その感得を「悟り」と言うのです。
その「なりきり」の最良の手段が「座禅」なのです。
ですから座禅こそ悟りの入り口ということになるのです。
さらに、ほんとうにその意味が理解されたときこそ「座禅そのもの」が「さとりの姿」と捉えることができるでしょう。
まさに座禅こそ安楽(さとり)の法門なのです。
お釈迦さまが六年間の禅定の結果ついに大悟されたのは正にそれを証明しています。
すなわち、座禅と同じ境地で「起きる」「顔を洗う」「食べる」「歩く」「トイレに入る」「働く」「寝る」ということです。
このことを「立禅」「動禅」と言うのです。つまり言い換えれば生活総てが修行の場であるということなのです。
しかしいずれにしろ基本はあくまで「座禅」であるということを忘れてはいけません。
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| 合掌 |
| ----------------------------------------------------------千葉県の女性の方からのご質問 |
 | いまさら恥ずかしいのですが・・・お聞きいたします。 亡くなって49日すると仏様の世界へ旅立つと思っています。 仏様の世界では、こちらの様子が見えたり、こちらの声は聞こえるのですか? お盆のときだけ仏様はこちらの世界に帰ってくるとの事で、お盆以外はこちらの世界のことは分からないのかなって・・。
又位牌に魂がこめられていると思ってます。 そのお位牌に話しかけていますが、ある方に、お墓に亡くなった方の魂はいるから、お墓で話さないと・・と言われました。 しかし別の方(テレビで見ました)には、お墓では無心で、話をするものではないと聞きました。 毎日の出来事、楽しかったこと・辛かったこと・・などをご先祖様や仏様に報告するには、どこで話せばいいのかなって・・。よろしくお願いします。
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 | ご質問を整理します。
@仏様の世界から娑婆世界が見えるかどうか。また声が聞こえるかどうか。
Aお盆に帰ってきたときだけこちらの様子が見えるのか。お盆以外にはわからないのか。
Bお位牌に魂があるのか。お墓にしか魂はないのか。お墓では話をするものではないのか。
C仏様御先祖様に報告や相談するにはどこでしたらいいのか。
以上の四点について私なりの考えを申し上げます。
@について 仏の世界を涅槃といいます。涅槃の世界はこの世とあの世の総てに及んでいます。 ほとけさまはいつでも見ています。こちらが求めても求めなくとも全部お見通しなのです。 その証拠は「あなた自身が想っている」というところにあります。・・・分かりますか?
Aについて お盆になるとお墓に迎えにいくのは普段は家の仏壇に仏様はいないのですか?と・・・よく受ける質問です。 理屈から言えば確かにそうです。お盆になると迎え火を焚いてわざわざお迎えします。 3ケ日のご滞在が過ぎると送り火を焚いてまたお墓まで送ります。結論を言えばこれは理屈抜きなのです。 「お祭り」なのです。ご先祖様のいわば「先祖祭り」なのです。
お盆は大事な「先祖祭り」という宗教行事なのです。 お祭りですからみんながわざわざ故郷の我が家に帰るのです。 そしてお祭りに「参加」するのです。お祭りだからわざわざお墓に「お迎え」にいくのです。 お迎えに行くことで自分達は御先祖さまをこれだけ想っているのですよ、とモティベーションを 高めているのです。 ですからこれは理屈ではありません。お祭りとしての宗教行事なのです。単にそう思ってください。
Bについて 御先祖様はお位牌にもお墓にもそして菩提寺にもいらっしゃいます。仏身には固定や限定がありません。 涅槃の世界そのものだからです。お坊さんが「開眼供養」を行えばそこに全くの同じ仏様が誕生するのです。 例えば三人の子供がいてそれぞれが親の供養をしたいということで、三体のお位牌を用意し、 それに開眼供養を施せばそこに全く同じ三体の仏様が誕生することになるのです。 拝むのに声を出して唱えるのも心の中で唱えるのも全く差はありません。 大切なことは「一心に」拝む事です。
Cについて 拝む対象のあるところであればどこでも全く結構です。
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| 合掌 |
| -----------------------------------------------------------------匿名希望さんからのご質問 |
 | 私はある曹洞宗寺院の檀家の一人ですが、最近週刊誌に載っていた曹洞宗に関しての記事について お尋ねしたいと思います。 昨年の多々良学園の問題に続いて今回は元宗務総長だったある大物僧侶の自殺の記事が載っていました。 記事の内容が事実だとしたら大変忌々しき事態だと思います。
曹洞宗という私たちの宗派に今何が起こっているのでしょうか。 私は禅宗の永平寺が本山だということで これまで誇りにも思ってきましたが、一体どうなってしまったのでしょうか。 記事によりますと相当な不明金が元総長故大竹氏に流れていたそうですが、 そのお金はわれわれ檀家からのいわゆる上納金といわれる宗費の一部も含まれているのでしょうか。
もしそうだとしたらそのお金は当然返納されるべきだとおもうのですが如何でしょうか。 ------(途中省略)------
うちのお寺のご住職に尋ねてもよろしいのですが、このようなページがありましたのでご質問させて いただきました。
お立場もあり全てにお答えいただくのは難しいと思いますのでお応えできる範囲でよろしくお願い致します。
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 | その件が事実としたら正直大変残念なことだと思っています。 われわれ末派寺院の住職にはその件で正式な形で知らされておりませんし、 週刊誌の記事がどこまで真実なのかわかりませんので責任をもって応えることはできません。 ということを最初に申し上げておきます。
ただこれだけ公になってしまっているのであえて私個人の意見としてお答え致します。 わたしも一連の事件を知ったのは週刊誌の記事からでした。 あなたのように檀家さんとして驚きと疑問を持たれたのは当然なことですし、私も住職として 当然同じような疑問を持っておりじくじたる思いであります。
週刊誌によりますと、曹洞宗系列の学校建設にからみ約30億円もの大金が使途不明になっているそうです。 その建設に直接絡んでいたのが当事者であったといわれる元宗務総長の故大竹明彦氏でした。 宗務総長と言えば宗派の中での事務方の最高責任者であり最高実力者です。
最初にその問題が報じられたのは昨年10月6日号の週間文春の「坊主まる儲け疑惑」という記事でした。 この記事はあっという間にわれわれ末派寺院にも知れ渡り、大きなうわさになりました。 その後その件で当事者から特に反論は無かったようなので、その行方が気にはなっていました。
それから約半年後のつい最近の週刊誌FLASHに「曹洞宗元総長大竹氏の自殺」が載ったのです。 記事の内容からすると、検察からの疑惑の追求を苦にし3月30日にあるホテルに入り首吊り自殺を したということになっていますがほんとうなのでしょうか。 もしご本人がその疑惑に対し事実無根とするならば最後まで精錬潔白を訴えて闘うべきだったと思います。
本人は何も語らずに自殺をしてしまったとしたら一層疑惑を深めただけであり真相の解明には なっておりません。 故人の名誉にも関しますので自殺かどうかも含め関係者は是非真相を明らかにして欲しいと思います。
「大竹老師の指令は「天の声」といわれ、絶対服従でした。ひとことでも逆らえば、曹洞宗の組織を 運営する宗議会の議員から外される。誰も逆らえない状態でした」(曹洞宗のある高僧・週刊誌) 「ゼネコン指定をめぐるリベート問題が早くからとりざたされていました」(僧侶の一人)
「関係者によれば、それらの建築費の一部が大竹氏をはじめとする宗門の一部幹部に流れて いたのではないかと公然と囁かれていたというのです」(週刊誌) 「これを機に曹洞宗内のウミを出し切り、純粋な姿を取り戻すべきです。そう考えている人は 多いんです」(曹洞宗関係者)
それらの記事が事実なら当事者の責任は勿論ですが、公然と噂されていながら宗門の中で 誰も止めさせることができなかったとしたら、その中央の組織自体に問題はなかったのでしょうか。 自浄作用の無い組織は欠陥だと言わざるを得ません。 事実でないことを願っていますが、是が事実としたら宗門の名折れです。これ以上の恥はありません。
また、もし検察が入ったことが事実ならば、この際検察に徹底的に調べていただき宗門はその顛末を公表すべきでしょう。 そしてもし組織的にそのような犯罪の温床があったとしたら二度とこのような犯罪が繰り返されないように 組織改革すべきだと思うのです。 そして事実関係とその責任の所在を明確にしていただきわれわれ末派寺院住職がそれぞれの 檀家のみなさんに説明できるようにして欲しいと思います。
なお宗費の流用と賠償の件につきましては私としては今のところ何の情報もありませんので お答えすることはできません。 後日状況によってお話できるようになればと私自身も願っております。
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| 合掌 |
| --------------------------------------------------------岩手県 「在家僧侶」さんからのご質問 |
 | 最近、通信講座などでの『在家僧侶』などという講座を目にします。 実際に僧侶になるかどうかは別として、宗教的知識を自分のものにするための講座として、 有効なものかどうかをお教えいただきたくお願いします。
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 | 在家僧侶」についてはわたしも時折広告などで眼にすることがあります。 まず僧侶とは何でしょう。僧侶とはお釈迦様の時代の僧伽(そうぎゃ)からきています。 出家という意味です。出家とは在家に対しての言葉であり、文字通り「家から出た人」のことです。 ですから「在家僧侶」という言葉は大変奇異に感じますし、主旨からは矛盾した言葉だと思います。
結論を申し上げますと「在家僧侶」と言う言葉は大変誤解をうけ易い言葉だと私は思います。 事実僧侶であれば「僧侶」だけでいいわけですし、なぜあえてその前に「在家」をつけるのでしょうか。 在家に在りながら仏道修行をする人を「居士」といいますが、単に仏教を学ぶことでしたら 「居士」で十分な訳ですし、あえて「僧侶」を名乗る必要は無いと思いますが如何でしょうか。
居士と出家は全く違います。出家僧侶は正式にお釈迦さまの弟子になって修行する者をいいます。 (本ページの「住職ごあいさつ」の中の「坊さんとは」の項を参考にしてください。) 確かに現在の僧侶の中には在家の人たちと変わらない生活をしている人も多くいます。 むしろ中には在家の人以上に世俗的な生活を送っている僧侶も少なくないと言っても 過言ではないかもしれません。
その辺からいろいろ批判はあると思いますが、その良し悪しは別としまして、 法律的にも社会的に申せば「資格」の問題なのです。 その資格とは、宗教法人格の有る宗派の宗制(宗派の規則)に従ってそれぞれの宗派の 必要とされる修行や手続きを経て正式に登録されているということなのです。
それで社会的にも宗教法人的にも「公認された僧侶」として認められるのです。 あなたの申される「僧侶資格」がどのようなものであるか私には当然判りませんので、 あなたの場合がおかしいと決め付けているのではありません。 あくまでも一般論として申し上げていますので誤解のないようにお願い致します。
そしてあなたのお師匠様が宗教法人法に則ったれっきとした僧侶であればまったく問題はありませんので そのことも申し上げておきます。 また、現在住職をしているかどうかは問題ではありません。 宗教法人法で必要とされる条件にあっていればいいのです。
ただくどいようですが、「在家僧侶」という言い方がわたしには大変疑問なのです。 また法律上認められた「宗派」「法人」または「僧侶」でなければ宗教活動と称される行為は できないと思いますが、どうでしょうか。 「正式な僧侶たるにはどのようにしたらいいか」との質問に応えた本Q&Aの項を参考にしてください。
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| 合掌 |
| --------------------------------------------------------岩手県 「卍って?」さんからのご質問 |
 | 以前、卍の件について質問したものです。差別戒名について、再度教えてください。 どの文字があれば差別戒名と判断されるのでしょうか。ご存知の範囲で教えて下さい。
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 | 「差別戒名」というのは、江戸時代中期から昭和20年頃までに被差別部落の檀信徒のみに「授与」された、 「一般」の檀信徒と比較して「不当に差別され、おとしめられた戒名」のことをいいます。 その形態は、被差別部落の人々を差別するために、賤しいとされた「身分」、皮革製造などの「職業」や 相手を見下した軽蔑した文字や言葉などを織り込んだものです。
具体的な例をいくつかあげれば、 「連寂(置字)僕女、ト男、革尼、□□革門ト霊、僕霊、屠士、草女、畜男、似女、穢女、非男、栴陀羅男」 などが確認されております。 これらは、職業や身分を直接的な差別表記で表している「直接的差別戒名」です。
それに対して、一般の戒名と比べ、授けられている文字の数が少なかったり、位階によって 明らかに区別をしているなど、授ける側に差別的意図が見られる「相対的差別戒名」があります。 もとより、戒名とは、仏教に帰依した「仏弟子としての名前」ですから、そこに差別あるいは 区別するという余地は全くありません。
16世紀末頃から第二次世界大戦後まで、東日本を中心として全国的におびただしい数の 「差別戒名」が付与され、そしてそれが墓石に刻み込まれ、位牌や過去帳などに記されて、 長い間、被差別部落と見なされてきた人々の礼拝、供養の対象となって来たという事実に対して 謝罪の言葉もありません。
特に、本来仏の世界という理想の世界を追求している筈の僧侶によってそのような「差別」が 行われてきたという事実を重く真摯に受け止め衷心より反省し、これからの布教に務める必要があります。 もっともっと開かれた仏教、開かれたお寺、開かれた僧侶が求められているのではないでしょうか。
(「曹洞宗人権学習基礎テキスト」を参考にさせていただきました。)
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| 合掌 |
| ------------------------------------------------------------茨城県 「funao」さんからのご質問 |
 | 声明は誰の為でしょうか? お経を上げる(読む)事は彼岸の方へでしょうか、 又はこちら側の満足だけでしょうか?・・亡くなった方は、此方の声(行為)が聞こえる、判るのダロウカ?
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 | 声明やお経は誰の為でしょうか?供養は亡くなった人に届くのでしょうか? 尤もなご質問です。 大変貴重なご質問だと思います。 多くの人たちが持っている極めて単純であって難しい問題の一つですね。 私なりのお答えをしたいとおもいます。
まず、仏教に限らず、多くの宗教は故人の冥福を祈ることに重点がありますね。 冥福を祈ることとはどういうことでしょうか。 それは故人に対する敬意と追悼であり自己の人としての尊厳の表示であるということです。 祈りと感謝の行為のできるのはこの世の動物の中でも人間だけなのです。
人が人として生きられるのは祈りと感謝があるからなのです。(「祈祷」のページ参考) 逆に言えば、祈りと感謝ができるからこそ「人」なのです。 しかし、残念ながら、その祈りと感謝が薄らいできているのが現代社会ではないでしょうか。 「祈り」と「感謝」は一体のものです。
祈りのできない人が感謝のできる筈はありません。 感謝の忘れた人が、他人を疎み、嫉み、恨み、自らの尊厳をも捨ててしまうのです。 人を人とも思わない結果人の命が軽んじられてしまっているのではないでしょうか。 人は実に高貴な存在なのですが、同時に実に弱い存在なのです。
それは人は精神的な生き物だからなのです。 精神、心の持ち方で人生が決まってしまうのです。 その大変デリケートな精神と心は人生そのものと言っても過言ではありません。 その心の安定にこそ宗教の関わりが大きいのです。
一方宗教はアヘンだとも言われていますので変な宗教にひっかかったりしないように 気をつけなくてはいけません。 そのためにも、免疫力としてのしっかりとした宗教を持っておきたいものです。 まず、「声明やお経は故人に届くのでしょうか。」というご質問ですが、その前に、 あなたは人間に生まれて来る前にはどこに居たのか解りますか。
どこにいたのかは解らないが、どこかに居たという感じはありますか。 実は仏の世界に居たのですよ。 ただ記憶がないだけでそれは事実なのです。 なぜそれが解ったかというと、お釈迦様がその「ほとけの世界」を発見されたからなのです。 その発見を「さとり」といいます。
そのほとけの世界の成り立ちには絶対の法則があります。 それを「仏法」と言います。 その仏法に従ってあなたはこの世に生まれたのです。 実に尊い因縁によるものだったのです。 そしてまた、人は皆亡くなると又ほとけの世界に帰って行くのです。
全て因縁なのです。 ですから人は亡くなってそれで終わりではないのです。必ず来世があるのです。 と、こう言った理論を信じるかどうかは個人のこころ次第ですが、あなたはどう思われますか。 声明やお経を上げるのは故人の供養の意味で行っていますが、故人への哀悼、感謝、 追善は人として当然のことです。
供養が故人に届くかどうかは科学的に証明されませんが、それを信じるかどうかは個人のこころの問題です。 ほとけの世界、来世を信じかどうかは正に心の問題で他人はどうすることもできません。 故人に供養が届いているかどうかはあなたのこころの問題次第だというのがわたしの結論です。 そして、感謝の心があれば当然そこには「満足」の心があるのです。 |
| 合掌 |
| --------------------------------------------------------岩手県 「卍って?」さんからのご質問 |
 | 卍、逆卍の意義について教えてください。 私は現在、キリシタン・隠れキリシタンの研究をしておりますが、その件と卍とが結びつきそうな気がします。 また、家紋についても教えてください。表家紋・裏家紋にはどのような意味があるのでしょうか。 最後に、差別戒名について教えてください。今はなくなったとは聞いていますが、 おそらく穢多・非人階層につけられたものと解釈しますが、実際はどうなのでしょうか?
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 | 卍の意味についてお答えします。 「卍」は仏教徒の記章です。われわれの本性が宇宙同体の大縁起であるということの象徴です。 卍の縦画は時間を、横画は空間を表し、三世十方に縦横無尽なることを示しています。 四つの先端が左右に折れ曲がっているのは我々の本性が霊妙不可思議な宇宙大の光明を放っていることを表しています。 我々の本性がこの卍であることを信じて精進することが仏教徒の目的であるのです。
以下は辞典による説です。(参考までに) これは太陽が光を放っている状態を象形化したものとの説もありますし、一般的には卍字はヒンズー教の太陽神ヴィシヌの胸部の旋毛を示すものとされ、仏教では仏陀の胸や足裏に現れる瑞相とされ、ジャイナ教でも使用されているそうです。
ヒンズー教やチベット仏教では右旋と左旋とに意義の区別があるそうですが、中国や日本ではその区別がないそうです。 卍字はサンスクリットでsvastika(スバスティカ)といい、功徳、円満、吉祥などの意味があるそうです。 日本では主に左旋を用い寺院の象徴として使用されています。
表家紋と裏家紋とのご質問ですが、申し訳ありませんが、正直私にはよくわかりません。 想像ですが、戦国時代以後には家門を守るため家柄を一時隠す意味で、発音が同じで意味の違う字を使うために姓を変えたことがあったとも聞いたことがありますが、そのこととは関係ないでしょうか。
差別戒名についてですが、確かに昔職業によって戒名が付けられたことがあったようです。 そのことから明らかに差別を表す意味の文字が使われたことがあったようです。 特に非差別部落の人たちに対して意図的に付けられていたことがあったのは大変残念なことです。 特に仏教に携わる僧侶によって差別が行われていたことはとても恥ずべき事実だと思っています。
言うまでも無く仏教の精神は絶対普遍な慈悲心を以ってこの世を浄土に変えていくことです。 三宝印の中の諸法無我の意味は、三世は本来完全無欠の平等の世界であるから、 その「法」に則り生きるべきだと教えています。 基本中の基本が理解されていなかった結果だと思います。 特に指導者はもっと真の仏法を知るべきであると思います。
非差別部落の例はほんの氷山の一角であります。 それに残念ながらまだまだ表に表れない影での差別が存在しています。 差別に苦しんでいる人たちがまだまだいるのです。 この心の問題こそ宗教界はもっともっと力を入れるべきと考えます。 それには真の仏教の布教が望まれるのです。
世界には他にもまだまだいろいろな差別が存在し、蔓延しています。 文明、文化、科学はどんどん進歩しているのに心の世界での問題は一向に進歩していません。 残念なことですが、決してあきらめてはならないのです。 満足のいく答えとなったか疑問ですが以上で回答とさせていただきます。 |
| 合掌 |
 | 木魚って、なんで魚の形をしてるんですか? |
 | 魚は水の中で目をつぶりませんね。まぶたが無いのであたりまえです。 生涯目を閉じない魚は眠らないものと考えられていたようです。 お坊さんは修行の最中眠くなったりしますので、魚のように眠らずに一生懸命修行が できますようにという願いから、魚の形をした木魚を叩きお経のリズムをとっているわけです。 |
 | なぜ戒名には値段の差があるんですか? |
 | まず戒名ってなんでしょう。戒名とは仏弟子になった人に与えられる仏弟子としての名前です。 真の仏教徒は生前(生きているうち)に仏弟子になるのが本来なのです。 しかし昨今では死の直後、葬儀の時に戒名を頂き仏弟子になるというのが一般的になっています。 その意味するところは死後極楽往生したいとの願いにあります。つまり仏弟子になっていることで極楽往生が保証されるという、仏弟子こそ仏界に往けるというシナリオがあるからです。
では、なぜ戒名に段階があるのでしょう。戒名は住職が仏弟子(故人)の人柄などを考慮し、これからの仏界での理想的仏性を祈念して独断的に命名します。その中で、特に檀那寺や社会に大きく貢献された人にはその栄誉顕彰の意味で特別に院号や居士・大姉号などが授与されます。 これらは住職が自らの見識のもと、無私独断的に決めます。ですから本来戒名には「値段」は無いのです。
ではなぜ、「戒名料」なるものがあるのでしょう。 それは遺族が故人への追慕はなむけとして、あるいは世間的「見栄」として「いい戒名」を希望されるからです。 つまり故人が生前できなかった「貢献」を遺族が故人に代わり「没後貢献」(死後の貢献)の形で行うのです。 その「貢献」がお金に換算され「貢献料」つまり「戒名料」という形になってしまい値段がついてしまったのです。
ではそれらの「相場」はどのように決まっているかというと、それは貢献の度合いによって当然様々です。 また、地域や宗派やそれぞれの寺院の事情によってもいろいろです。特に住職との個人的関係によっても違ってきますから「戒名料」については忌憚なく住職に相談するのがよろしいかと存じます。
戒名は売り買いするものではありません。また、見栄や世間体によって希望するものでもありません。 良心的な住職であれば、その個人にあった最良の戒名を授けて下さるはずです。 ちなみに戒名によって冥界での差別は一切ありません。全て平等です。 |
 | 普通の人がお坊さんになるにはどうすればいいんですか? |
 | まず、ある宗派のある寺の住職の弟子になることです。住職より弟子になることが許されたら「得度」します。 得度とは坊さんになることで「得度式」というものを受けます。それから住職は「師匠」となります。 師匠の許しがあって本山や地方僧堂(地方の修行寺)に修行に行くことができます。
修行が認められ、その後いくつかの「式」を済ませて正式の「和尚」になります。 和尚になって初めて葬儀ができ、住職に就く資格ができます。何はともあれ、お坊さんになるのに一番難しいことは「弟子になる許しを得ること」でしょう。生半可なことではなかなか弟子にはなれません。 一般の人の場合、相当の決意と覚悟が必要でしょうし、まさにそれなりの「縁」がなければなりません。 |
 | お坊さんの修行って何年位かかるんですか? |
 | 宗派によって実に様々です。他の宗派のことは正直よくわかりません。 大変厳しいところから、比較的容易なところまであるのは事実です。 我が曹洞宗について申せば、学歴によって修行道場での修業の最低年限が決まっているということです。 ちなみに高校卒業の者は2年以上、大学卒業の者は1年以上ということになっています。
また、修行ですから本人の希望次第でいくらでも長く本山にいることもできます。 もちろん修行は本山で終わりではありません。本山はあくまでも「基本」を学ぶところであり本当の修行は本山から戻った「娑婆世界」が正念場と言えるでしょう。楽したらキリが無いし、精進したらキリが無いのが修行です。 一生修行と言われますが、あくまでこれも本人の自覚次第でしょうか。 いろいろなお坊さんがいますのでしっかりした見極めが必要です。 |
 | 私の知ってるお寺は何百年も前から建っているんですが、 最近(平成)になってから新規に建てられたお寺ってあるんですか? |
 | 新しくお寺が建てられることを文字通り「新寺建立」と言います。
まず徳のあるお坊さんの下に篤信の信者さん達が集まります。
そして土地や資材などが無償で提供されたり、あるいは相当額の金銭が勧募寄付されます。
労働力も同じです。
原則的には全くの奉仕事業としてお寺は建立されるのです。
そしてその時のお坊さんが初代住職になり「御開山様」と申します。
お寺が建つのは全て寄付と無償の奉仕活動に依るものだと言いました。
見返りを求めないこれらの行為を「布施」と言います。
実に多くの人達の布施によってお寺は建つものなのです。
実に尊くありがたいことです。
しかし確かに現在あるお寺は何百年も前に建ったものばかりです。
特に鎌倉時代には、日蓮聖人、親鸞聖人、道元禅師などが出世されそれぞれ宗派拡充の時代であり、 全国的に新寺が爆発的に増えました。
その後江戸時代の檀家制度の確立によって安定時代に入り今日に至っています。
最近建立されたお寺は、残念ながら皆無ではありませんがほとんどありません。
高徳のお坊さんが居なくなったのか、篤信家が居なくなったのか、間に合っているのか、 必要とされていないのか、よく判りませんが、それら全ての理由かも知れません。
新寺が建たないばかりか、最近では特に地方や過疎地などでは統合や廃寺も目立ってきています。
少子高齢化の時代に依るのかも知れません。
檀信徒の居なくなったお寺は消滅の運命しかありません。
お寺と言えども諸行無常の流れには逆らえないのです。 |
頂いたご質問はこのQ&Aページに反映していきたいと考えておりますが、 ご質問の内容によって、直接お返事のメールを差し上げる場合もございます。 プライバシーは厳守いたしますのでご安心下さい。 ご質問者のメールアドレスは表示されません。 ご質問には極力お答えしてまいりますが、手作業に付き、 送って頂いた方全員のご質問にはお答えできない場合もございます。どうぞご理解下さい。 |
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