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仏教講座

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観音経 --その7--

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若有女人。設欲求男。礼拝供養。観世音菩薩。便生福徳智慧之男。
設欲求女。便生端正。有相之女。 宿植徳本。衆人愛敬。
無尽意。観世音菩薩。有如是力。若有衆生。恭敬礼拝。観世音菩薩。
福不唐捐。是故衆生。皆応受持。観世音菩薩名号。
若(も)し女人ありて、設(も)し男を求めんと欲して、観世音菩薩を礼拝供養せば、便(すなわ)ち福徳智慧の男を生まん。
設し女を求めんと欲せば、便(すなわ)ち端生有相(たんしょううそう)の女を生まん。宿(むか)し徳本を植えて、衆人に愛敬(あいきょう)せらる。
無尽意、観世音菩薩は是(かく)の如きの力あり、若し衆生ありて、観世音菩薩を恭敬礼拝せば、福、唐捐(とうえん)ならず、是の故に衆生、みな応に観世音菩薩の名号(みょうごう)を受持(じゅじ)すべし。

最初に「若し女人ありて・・・」とあるようにこの段の主役は女性です。
女性のもっとも大きな願い、望みをかなえてくれることを説いているのが、この「二求章」(にぐしょう)なのです。
最初の文は「女性がよき男の子を生もうと欲したならば観音さまを礼拝すれば福徳と智慧をそなえたりっぱな男の子を生むことができます」と、さらに「もし女の子を求めればすぐにでも端正な美しい女子が生まれるでしょう」と説いています。

そして「宿(むか)し徳本を植えて、衆人に愛敬(あいきょう)せらる」と説いています。
そのような立派なこどもを授かったのは、母親の今までの人生とさらにその母親の両親、その又両親という先祖が培った徳本であるというのです。
徳の積み重ねを「徳本を植える」というのです。
その徳により多くの人々(衆人)に敬愛(愛敬)されてきたのだというのです。

お釈迦さまは無尽意菩薩に申されました。
「無尽意菩薩よ、観世音菩薩にはこのような力があるのだよ」 観世音菩薩を恭敬礼拝すれば、その結果はけっして無駄(唐捐)にはならず、福が必ず具わるというのです。
お釈迦さまはさいごに、「だからこそ衆生は観世音菩薩の名号を常に称えなさい」さらに「まさに受持すべし」と力説されています。

以上の内容を語訳から見ると単なる現世利益を説いたものにすぎません。
しかし語意の中の理釈を観なければ凡夫の浅知恵の域を出ることにはならないのです。

ここでは女人、つまり女性が主役になっていますが、私の持論で女性のもつ母性愛と性(さが)について論じてみようとおもいます。
さらに女性に対しての偏見や誤解について抉ってみました。

「女性がよき男の子を生もうと欲したならば観音さまを礼拝すればよい。福徳と智慧をそなえたりっぱな男の子を生むことができます」と、さらに「もし女の子を求めればすぐにでも容姿端正な美しい女子が生まれるでしょう」と説いています。
実にわかり易い内容となっています。
しかし一見分かり易い内容ほど実は奥が深いのです。

事実女性にとって最大のつとめは子供を生むことでしょう。
良い子を生み立派に育てることが女性に課せられた天与の使命なのです。
実に尊いことです。

その女性が願うことは、男子ならば福徳智慧を具えた子、女子ならば端生有相の容姿端麗の子なのです。
母親としてあたりまえの願いです。
一心に観音さまにお願いすれば必ずその願いは叶えられるというのです。

そこでまず言いたいことは、良い子を生むために特に女性に与えられたものが「母性本能」だということです。
この母性本能なくして子供は生まれませんし、また育ちません。

人間に限らずすべての生物にはこの母性本能があります。
生物が種族保存のために身につけた本能です。
これこそ理屈抜きの「慈愛の本能」なのです。
我が子のためならば何事も厭わないというその愛はまさに観音さまの慈悲心と同じです。

母性本能は子供が宿ってから身につくのではありません。
女性に元々具わっているものなのです。
母性本能が子供を求めるのです。
子供を求めるその想いが純粋に一途であれば必ず観音さまに通じるのです。
母親の心が観音さまの心となり願い通りの「良い子」が生まれるというシナリオです。

そこで気になる疑問は、ほんとうに希望通りの男の子、あるいは女の子が生まれるのかということです。
もし男の子を希望していて女の子が生れたり、またその逆もあるでしょう。
その場合希望が叶えられたということにはなりません。
そんな疑問が解決されないかぎり多分あなたはこの観音経の教えを完全に信じることはできないかも知れません。

先ほどらい語釈ではなくて理釈でなければ本当の解釈にはならないと言いました。
そこで私の持論でそんな疑問を払拭してみたいと思います。

例えばある母親が福徳を具えた賢い男の子を望んで一心に観音さまにお祈りしたとします。
そこで観音さまはその両親や先祖の培った徳本や全ての全宇宙生命体の因縁に従った結果をお出しになるのです。

一心に観音さまを念ずることで母親の心は無心になり観音さまの無心と完全に一体になるのです。
それは母親の心が観音さまの心になるということです。
この理屈は私がこの講座のなかで繰り返し述べている持論なので多分お分かりになるかと思います。

つまり母親の心が観音さまの心と一緒ということは、生まれてくる子供は100パーセント観音さまの意志であるということになるのです。
それは生まれた子が男の子であろうと女の子であろうと、容姿特徴がどうであろうと、その結果が観音さまの御心である以上、それは同時に母親の心でもあるということです。
当然そこには何の不平不満もありません。

生まれた子はどんな子であろうと観音さまの御子であり完璧な我が子なのですから、母親にとってその全てが愛おしい「存在」なのです。
母性愛と観音さまの慈悲心がみごとに一致した結果なのですから、ここに母親にとっては100パーセント希望通りになったという理屈があるのです。
如何ですか?この論理。
これは決してこじつけではないのですよ。これを理釈というのです。

聖徳太子は「菩薩、物を化すること慈母の嬰児に就くが如し」と述べられています。
女性は母性愛をもつことによって真の女性となり、母性愛とは「慈母」の愛であり、まさしく観音さまの姿であると申されています。

母性愛・・・それはちょうど観音さまが一切衆生に対して抱いている慈悲心であるように母親が我が子に対して抱いている慈愛の心なのです。
それは観音さまが子供を生み育てあげるために女性だけに与えた特権とも言えるでしょう。

ただ観音さまの慈悲心と大きく違うところは、母性愛は我が子に限定されているということです。
実はここがちょっと問題なのです。それはつまり「偏愛」だからです。

偏愛は自分の子供こそこの世で一番愛しく一番尊い存在だという想いです。
その想いがさらに独占的になると盲目的愛情から、妄我妄執の独善的世界に陥ることにもなるのです。

鬼子母神の話をご存知でしょう。
このお話は法華経の中に説かれているものです。

仏陀の時代、鬼子母神は五百人の子供を持ちながら夜な夜な他人の子をさらって食べていたという。
お釈迦さまは見かねてその彼女の最愛の末子を神通力によって隠してしまいます。
彼女は狂乱して探し廻りますが見当たらずついにお釈迦さまに相談します。

「五百人の子供のうち、たった一人居なくなっただけで、おまえはこのように嘆き悲しんでいる。
たった数人のうちの一人の子供をさらわれた親の悲しみはどれほどであろうか。
子供の愛おしさは人間も鬼神もかわりはないのだ」と諭されてから子供を返します。
鬼子母神は改心し、それ以降鬼子母神は仏教と子供の守り神となったというのです。

まさに母性本能の極みと言えるものです。
この話は極端な例であるかもしれませんが、私は母性本能には女性特有の性(さが)に依存していると考えるのです。
これも私の持論ですが、次にそのことについて論じてみたいと思います。

女性特有の性(さが)・・・ これこそ「女性は罪深いもの」とさせている「張本人」なのです。

たしかに多くの経典には女人は罪深いと説かれているのも事実なのです。
例えば出家した場合、比丘(男性の僧)は250戒律を守るのに対して、比丘尼(女性の僧)は350戒律を守らなければならないとされています。
このことからも「女性は罪深い」とされる所以があるのは確かだと思います。

中国の唐代の南山律宗の開祖道宣(どうせん)は女人の七種の罪、科(とが)を説いています。

  • (1)女は男に愛欲を起こさせ、しかもそれを厭うことがない。
  • (2)他の女性に対して絶えず嫉妬心を抱き、口では親愛の情を言っても、心では相手を敵のように思っている。
  • (3)いつわり親しむこころがあるため、人を見るとき、物を言わないで先ず微笑む。
    口では相手のことをほんとうに思っているように言うが、心では恨みを抱く。
  • (4)女は怠惰であって、全身に美しい着物をきることばかり考え、顔や姿を美しく飾り、男に愛されようとする。
  • (5)偽りを宗としているため真のことばが少ない。人が不幸になることを願っている。
  • (6)欲の炎が身を焼いても恥じることがない。心がどんなに迷っても恐れることがない。たえず心が酔っぱらったような状態でいるから恥を知ることがない。
  • (7)身体は常に不浄で、虫血、月水を流している。

ではこのように昔から女性は男性よりも罪科(つみとが)が多いとされるその訳について考えてみましょう。

まず、人間には男と女がいますが、それは、男は男として、女は女としての役割があるからです。
当然男は男の、女は女の身体的特徴があり同時に精神的特徴が有ります。

私が論じきたように、女性の一番の役割は子供を生み育てることです。
子供を生むということはまさに「奇蹟」の行為です。
それだけに女性にはその"大事業"を成し遂げるために自分自身を護る術があるのです。
それが女性特有の"性(さが)"なのです。
それはいわば難事業を果たすために特別に具わった防衛本能としての精神的特徴なのです。

先に挙げた女性の七つの罪科をもう一度よ~く視てください。
例えば①の「女は男に愛欲を起こさせ、しかもそれを厭うことがない」を考えてみてください。
もし女性に男性に対し愛欲心を起こさせる性(さが)がなければ、絶対に子供はできません。

つまりここで私が言いたいのは、「七つの罪科」とされているものはどれも決して「罪科」ではなく子供を生み育てるための精神的特徴であり「特権」だということです。

これを「第二の母性本能」と言います。(学説ではありません。わたしの拙論です。念のため) どうですか。女性は罪深いという偏見は少しは解けたでしょうか。

さて、ここで女性のつとめは子供を生むことだなどと強調しすぎると今の時代「女性蔑視だ」などと言われかねません。
しかし実際男性には子供は生めません。女性が子供を産まなくて誰が生むのでしょう。
負担の無い生活や自分たちの自由奔放な生活を優先させることで、子供を生むも生まないも本人の勝手だなどと主張するとしたらそれは如何なものでしょうか。
「母性本能」の発現こそ幸福の証だと私は思いますが、いかがでしょうか。

ちょうど今日テレビのニュースで流れていました。
昨年の出生率が厚生労働省から発表され1,25人で過去最低を更新したとのことです。
より実効性の高い少子化対策が求められているとか。
しかしこの問題につては政界や学会のエライ先生方が随分前から熱心に議論していますが、これから先も妙案は無いと思いますよ。

少子化対策は子供手当などの目先の対症療法ではほとんど効果は見込めません。
人間としての基本的な考え方と生き方を取り戻さない限りこの問題に明るさは見えてこないでしょう。
今の日本人の価値観がそのまま現れているだけのことであり、自業自得以外の何物でもありません。

男女平等も結構ですが、男は男の、女は女としての役割があるのです。
男女の役割がおかしくなるということは母性本能にも大きな影響がある筈です。

過去6年間(2002年~2008年)で児童虐待はなんと40倍にもなっているのです。
20年度の児童虐待死は67人にもなっています。
なんでこんなにも親がおかしくなってしまったのでしょう。
それにしても最近幼いこどもが犠牲になる事件が多すぎます。

犯罪の増加に現在の家庭と社会の実態が反映されているのは間違いありません。
虐待も犯罪も増えているということは、人の心が劣化しているのでしょうか。
子供にとって親と家庭がすべてなのです。
子供に未来が無くなった時こそ人類の終わりです。
人類はこれから先ほんとうに大丈夫なのでしょうか?

決して他人事では済ませられません。
やはり宗教ですよ。せっかく仏教という素晴らしい宗教があるのです。
宗教は倫理道徳の基本になるものです。何故もっともっと活かされないのでしょうかね。

さて、本論に戻りましょう。
女性の性と罪説について論じてきましたが、この際さらに確認しておきたいのは、仏教における男尊女卑はないということです。

原始仏教においては男女を平等にあつかい、ともに仏弟子となれると説いています。
道元禅師も説かれています。

設(たと)ひ七歳の女流なりとも、即ち四衆の導師なり、衆生の慈父なり、男女を論ずることなかれ、 此れ仏道極妙の法則なり。(修証義・発願利生)

昔から一般的に女性の地位は男性よりも低いものとされてきただけに、道元禅師はあえて「たとえ女性であっても・・」と表現され、さらに「仏道極妙の法則」とまで言わしめています。
仏道修行にあたっての男女の差別は完全に否定されています。

現代でさえなかなか真の男女平等は難しい現実にありますが、真理の世界に昔も今も無いのです。
真理に裏打ちされた「仏教」の理論はやはり時代を超えていつでも真ピカなのです。

合掌

曹洞宗正木山西光寺