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平成27年4月12日 女性から1回目のご相談

私は今様々な面において「~すべきだ、~であるべきだ」という観念でがんじがらめになっています。
隻手音声の話を読んで、これらの観念は分別妄想なのではないかと思いました。
ただ、その分別妄想からの解放がどうすればできるのかがわかりません。
公案を通して自分と向き合うことがその解放につながるのでしょうか?

西光寺住職です

公案はまさに分別妄想からの解放を目指したものです。
一切の分別妄想のない世界を涅槃と言い、空とも彼岸とも、そして浄土とも言うのです。
その世界を体験することで人はこの世の絶対価値観が認識できるのです。

その絶対価値観の立場に立ったときに、自分とは何か、生きるとは、しあわせとは、人生とは何かが分かるのです。
つまり、人間世界においてほんとうに大事なことが分かってくるのです。
そうすれば、自ずと人としての生き方、在り方が分かってくるのです。

仏教は、ご存知お釈迦さまがお悟りを開かれたことで始まった宗教です。
そのお悟りの実体は分別妄想からの解脱ですから、仏教の目指すところは人の生き方、幸せのあり方ということになります。
ですから、お釈迦さま以来あまたの求道者が命を賭してその「真実」を目指し修行をされたのです。
仏教には実際それだけの価値があるのですから、実にすごいことです。

仏教は真実だけを語り、人のしあわせだけを願っている、正真正銘の宗教です。
分別妄想からの解脱には坐禅もあれば念仏もあります。
坐禅が自力本願とすれば、念仏は他力本願となりますが、目指すところは同じです。
坐禅で言えば、その一つが「公案」ということになります。

結論を言えば、あなたの言われるように、「公案を通して自分と向き合うことがその解放につながる」のです。
それには、しっかりした指導者につくことです。
ただし中途半端な気持ちでは長続きしませんから、決心をして臨んでください。
ご健闘をお祈りします。

合掌

平成27年4月12日 女性から再度のご相談

お返事ありがとうございます。
指導者につくことが必要とのことですが、なぜですか。
悟りは指導者が教えるものではなく、指導者は悟りを促すことしかできないのではと思いました。
一人合点するのを防ぐためなのかと思いましたが、周囲を歪んだ形で巻き込んだりしなければ、それも別に構わないのではないでしょうか?

西光寺住職です(再回答)

確かに、学問などはテキストと参考書があればどんな分野でも自分だけでも学ぶことはできます。
では、なぜ学校や塾があるのでしょうか。そこには先生という指導者がいるからです。
特にお稽古ごとなどは正しい指導者の下でこそ正しい習得ができるのです。

特に禅において悟りは「教外別伝」「不立文字」と言われます。
これは言葉では伝えられないほど難しいものだという意味です。
それだけに、しっかりした指導者につかないと独り善がりや外道の理解になってしまうのです。
お釈迦様でさえ、その悟りには過去七仏という師匠がいたと言われるゆえんです。

あなたの質問はごもっともです。まず疑問をもつことが大事です。
お釈迦さまも「生老病死」の悩みを抱え解決すべく出家されたのです。
悩みや疑問のなかにこそ真実があります。
まだ20代のあなたです。がんばってください。

合掌

曹洞宗正木山西光寺