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法話

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法話--平成18年4月--

極楽浄土(2)--極楽ってどこ? --

理想の世界、極楽浄土の様子については先月申し上げました。
そこの実態がほんとうに理解できればその場所も自ずから解ってくる筈なのですが・・・ 今回はその極楽浄土のある場所について考えてみましょう。

まず極楽浄土ってほんとうに在るのでしょうか。
結論から言いますと、ほんとうに在るのです。まちがいなく在ります。
建前論ではなくほんとうに在るのです。
そのことを私なりの持論、独論、珍論?で論理的に述べてみたいと思います。

お釈迦さまは阿弥陀経のなかで、西方十万億土にあって阿弥陀仏の住む極楽浄土がいかにすばらしいところか、どうすればそのすばらしい浄土に往生できるかを説いています。

お釈迦さまの説かれたお経ですから絶対にウソや間違いはありません。
まずそのことを信じてください。宗教は信じることから始まるのです。
では、ほんとうに在るというその極楽浄土の旅にこれからご案内致しましょう。

そのお釈迦さまの教え、その説法とはただただ大宇宙悠久の真理という「法」を説くことにあったのですが、お釈迦さまは相手によってその人に適った仕方で説法をされたといいます。これを対機説法といいます。

子供には子供なりの老人には老人なりの、その人となりを見極められて説法されたのです。 その手段として使われたのが「方便」です。
お釈迦さまの説法の中には実に多くの比喩や方便が取り入れられています。
ですからこの「方便」を抜きにお釈迦さまの説法やお経は語れないのです。

法華経にある「火宅の比喩」はとくに有名です。
大邸宅にあって、子どもたちが嬉々として遊びたわむれています。
その大邸宅が火事で燃えているのに全く気がついていないのです。
子ども達の父は自分が大邸宅の外に出てみて火事に気がついたのです。

そして「早く出ておいで・・・」と声をかけるのですがこども達は遊びに夢中で父親の呼びかけに応じようとしません。
そこで父親は、うまい方便(工夫)でもってこども達を誘い出して救うのです。
それが「火宅の比喩」です。

救おうとする父親とはお釈迦さまであり、こども達とは迷える衆生のことを指しているのです。
救うことを第一に考えると比喩や方便がどうしても必要だったのです。
現代では言い訳に方便を使ったり、ウソを正当化させるために「ウソも方便」などと言ったりしますが、正しい使われ方ではありません。

「方便の家元」であるお釈迦さまが悲しまれます。
本来の意味合いをしっかり心得てほしいものです。
さて、ここであえて「方便」をとり挙げたのは、持論ですが、わたしは「他力門」の教えこそ方便だと考えるからです。

当時お釈迦さまのお弟子や信者の中には厳しい修行に依って悟ることのできない人達も当然大勢居たわけです。
自力に頼れる人以外に悟りの道は開かれないとしたらそれはとても理不尽なことです。
どんな人でも悟りを求める以上そこには道が開かれていなければなりません。

一切衆生を救うこと、それがお釈迦さまの本願ですから、お釈迦さまが修行の苦手な人達のために編み出した手法がこの「他力門」の教えであったとしてもしごく当然ではないでしょうか。
その代表的教典が「無量寿経」などの阿弥陀三部経といわれるものです。

阿弥陀経の中には、「心から阿弥陀仏を念じることでどんな人でも極楽に往生できる」と説かれています。
浄土宗の提唱する「浄土思想」の教えの根拠はこの阿弥陀経に由来していると考えられます。

阿弥陀仏の救いを信じ、専心念仏で極楽浄土に成仏できる・・・・実に分かりやすい教えですね。
特に現世に失望している人たちにとって「来世の浄土」は絶対の魅力です。
安心して臨終を迎えることができるのです。

むずかしい仏教理論を知らなくても、身を粉にして修行をしなくとも、ただ「南無阿弥陀仏」とお称えさえすればいいのです。
実に単純明解な教えですね。
まさに大乗仏教の精神がここにあると言ってもいいでしょう。

多分もうお分かりでしょう。
つまり他力門の教えが方便であるとしたら即ち「阿弥陀経」の教えも方便であるということです。
極楽浄土は十万億土も離れたとこに在るとのことですが、十万億土とは具体的にどの位の距離を言っているのでしょう。

正直私にはわかりませんが、随分と遠い宇宙の遙か彼方のことでしょう。
そして「往生」とはまさに「あの世に行く」ことなのでしょう。
このイメージこそが仏教は死んだ人をあの世に送ってあげる宗教であるかのようなイメージをつくりあげてしまっていると言ってもよいかもしれません。

現に仏教イコール葬式・法事をやる宗教だと思っている人がほとんどです。
実は、もともと仏教は葬式・法事とはまったく無関係だったのです。
実際、お釈迦さまにしても、最澄、空海、法然、道元、日蓮、親鸞といった各宗の祖師方におかれてもその一生の間にご自分の弟子や信者のための葬式をしたことはないのですよ。

どうです。驚きでしょう。
江戸時代以降、お寺が檀家制度を取り入れてからその維持経営と檀家把握の手段として仏教が葬式を扱うようになったのです。
以後葬式儀礼としての仏教が主流となってしまったのです。

むかしのお寺をよく見てください。実際、東大寺、薬師寺、法隆寺などに墓地や霊園などはまったくありません。
むかしは、お寺とは今で言う大学みたいなもので仏教という学問を学ぶための文字通り殿堂だったのです。

本来の仏教寺院は生きている人たちに対しての「生き方」や「真理探求」の学問教授の所だったのです。
否、今でもこれからでもそれが本題だということをここであらためて強調したいわけですが、現在の実態を考えると本来の仏教やお寺に戻れる可能性は果たしてあるのでしょうか。

あるようにはとても思えません。イヤハヤほんとうに末法なのでしょうかね。
とは言うものの、今現にお寺から葬式が無くなってしまったらわれわれお坊さんはあがったりです。

信者だけのお布施だけでやっていけるお寺さんが果たしてどの位あるでしょうか。
わたしも本音を申せばまったく自信がありません。
随分えらそうなことを言っている割にはだらしない坊さんだと重々自覚しておりますので。

脱線が長くなりました。さて本論に戻りましょう。
先にも申しましたように、わたしの持論は阿弥陀経の教えもお釈迦さまの巧みな方便を駆使した絶妙の説法であったということです。 わたしも阿弥陀経を読んでみましたが、「死んでから」とか「あの世」とかの具体的表現はどこにも見当たりません。

確かにあの世を彷彿とさせる内容ですが、例えば観音経の解釈に事訳と理訳があるように、阿弥陀経にも事訳と理訳があると思うのです。
たしかに一般的に「往生」と言うと「死ぬこと」と解釈されていますが、それは極楽浄土をあの世と解釈するからなのです。

「往生」とはつまり悟りを得て涅槃に「往く」ことなのです。
遠い極楽浄土に生まれかわるとは、理訳でいえば悟って涅槃の世界に入るということなのです。

さて、今回の極楽浄土への旅もまだ道半ばですが大分近づいてまいりました。
まだ先がありますので今回はこの辺で一服休息したいと思います。

合掌

曹洞宗正木山西光寺