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法話

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法話--平成18年5月--

極楽浄土(3)--極楽ってここですよ --

阿弥陀経の意味するところは方便を取り入れた他力門の教えだと申しました。
お釈迦さまが方便を駆使したお説教の達人であったことを考えると当然のことです。
ここでちょっと「方便」について私なりの考えを独論的に述べてみたいと思います。

方便とは仏教に限らずどの宗教にも宗教である以上その教えの中には必然的にその要素がとり入れられていると思うのです。
方便の要素こそ宗教の本質に欠かせないものであると思うからです。
そこで注意したいことは、「方便」の解釈を誤ったり過信したりすると「盲信」になるということです。

たしかに宗教である以上現世利益が求められるのは当然なことです。
現世利益があってこそ宗教なのですから。
しかし、方便が歪曲されてしまったり方便の範疇を逸脱したりしてしまうとそこにあるのは盲信や迷信の罠です。

例えば、拝めば病気が治る。拝めばお金が入る。
信心が足りないから不幸が続くのだとか、そんな悪意の手口にはまるととんでもない災難や不幸に見舞われることにもなるのです。
霊感商法などの詐欺行為に遭ったり、変な宗教にマインドコントロールされたりするのは盲信の結果なのです。

その極端な事例があのオウム真理教の事件と言ったらよいでしょう。
大変な殺人事件を起こした者の多くはもとはといえば純粋な若者たちだったのです。
多分最初から殺人鬼の集団と知って入信した人はまずいないと思います。
盲信の結果殺人鬼に仕立て上げられてしまったのです。
これを狂信と言います。

変な宗教に引っ掛からないためにも普段から正しい信仰を持っておくことが大切なのです。
正しい信仰とは正しい信条をもった宗教に帰依するということです。
正しい信仰は邪教に対する免疫力にもなり抵抗力にもなるのです。

宗教は「阿片」ですからマインドコントロールされない眼力を養う必要があるのです。
それには何よりときどきこのホームページを見ることです。
いつもご覧の方はまず心配ないでしょう。
わたしがいつもこのページに「正しい気」を吹き込んでいますので安心してください。
(これはマインドコントロールではありませよ、念のためここでアピール)

「あの世の極楽浄土へ往生できる」とはつまり方便だと申しましたが、そこでそれは方便だから事実ではない「ウソ」だろうと決めつけてしまってはそれこそ元も子も無くなってしまいます。
方便は迷信ともごまかしとも違います。
方便とはつまり「事実の比喩」なのです。
だから「真実」なのです。そのまま真実として信じてください。

念仏こそ悟りへの他力門であると申しましたね。
ただただ阿弥陀仏を一心に称名することで阿弥陀さまに救って頂けるということ。
そのねらいはまさに「一心称名観世音菩薩」と同じであるのです。

一心に念仏することで無心に成りきり、それはそのまま無相無碍の阿弥陀仏の世界に取り込まれるというシナリオなのです。
どうですか。このように方便の中に真実があるのがわかりますね。
ちっとも難しくないでしょう。

「念仏」という実践がそのまま悟りであるという、修と証が一如であるという(修行と悟りは一体であるということ)お釈迦さまの意図が正にここに有るのです。
自力門も他力門も入り口だけが別なだけでそのゴールは全く同じ極楽浄土であったのです。

お釈迦さまの狙いは只一つ涅槃の世界へ人々を導くことにあるのですから、如何に人々を彼岸の世界・浄土の世界へ導くかにあるのです。
方便がその大きな手法の一つであるのがわかりますね。

さて、「極楽浄土」への旅もいよいよ佳境へとやってきました。
煩悩があるから悟りがあるのです。
穢土があるから浄土があるのです。
此岸があるから彼岸があるのです。

此岸での迷いが深いほど彼岸の距離は遠いのです。
彼岸への距離は迷いの程度に比例しているのです。
迷いの深い娑婆世界に居るからこそ、極楽浄土は遠い遠い遙か彼方に存在するのです。
その想像もつかないほどの遠い距離を「十万億土」という言葉で表しているのです。

これこそ方便であるのですが、同時に真実なのですよ。
ほんとうにたいしたもんだと思いますお釈迦さまは。
ひとによってそれぞれ極楽浄土への距離はちがうのです。
どうでしょうか、あなたの極楽浄土はどの位のところにありますか。
とても想像つかないですって?イヤイヤそれが普通なのですよ。

でも、もし少しでもその距離を縮めたいと思ったら修行することです。
当山の坐禅会に来てみてはどうですか?えっ?自力門は大変だから他力門にするって?「方便」を要領に使われるのはどうかと思いますね。
まあいずれにしろ阿弥陀さまはすべてをお見通しですから好きにしてください。

「毫釐(ごうり)も差あれば天地はるかに隔(へだ)たる。」(普勧坐禅儀・道元禅師)悟ってみれば全宇宙は一つであり、己自身が宇宙そのものだと分かるのです。
そこには十万億土の距離なんて全くありません。
自分と極楽の間には「毫釐の差」も無いのです。

天地輿我同根 萬物輿我一体「天地と我と同根、万物と我と一体」(碧巌録)
宇宙の全てが我が身の中に存在するのです。
「ここ」こそ涅槃、「ここ」こそ浄土、「ここ」こそ毘廬舎那仏の本体なのです。
「阿弥陀さまは西方浄土にいらっしゃるが、地獄とはどちらの方角にあるんですか」ある人が一休禅師に訊ねました。

「地獄か。きまっているではないか。南の方角だよ」
「地獄は南方にあるんですか。証拠でもあるんですか」
「証拠はおまえさん自身だよ。みんなみにある」
「みんな身にあるんだよ。地獄はみんなわが身にあるんだよ」

仏教に「六道」という言葉がありますね。
地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六つの世界です。
一般的にはこれらは死後の世界だろうと思っているようです。
おそらくあなた自身そう思っていませんか。
半分当っていると言えます。

なぜ半分かといいますと真如の世界には生前と死後の区別が無いのです。
般若心経の「不生不滅」の意味はそのことを言っているのです。
あの世とこの世の区別が無いということは地獄や極楽はあの世にもこの世にも在るということです。

この世に生きている私たち自身の今のそのままの心が、地獄から最高は極楽浄土まで行ったり来たりしているのです。
地獄も極楽もすべてこの身の内にあるのです。

お釈迦さまは開悟したときに思わず叫びました。
「人間はもとより禽獣虫魚も山川草木もみな成仏して、それぞれに大光明を放っており、昨日まで穢土(えど)と思っていたこの娑婆世界が、そのまま極楽浄土であることに気が付いた。
このように開悟すれば娑婆即浄土であり、大調和の世界である。」と。

どうですか。遠い遠いと思って旅してきました極楽への旅は「ここ」こそ極楽だったのです。
今あなたが住んでいるその場がいつでも極楽浄土にもなれば地獄にもなるという、極楽も地獄もすべてはあなたのこころ次第で決まるという・・・・これが結論です。

合掌

曹洞宗正木山西光寺