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法話

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法話--平成19年2月--

--恩 (その7)― 報恩 ― --

これまで恩についていろいろ述べてきましたが、ではその恩に報いることとは一体どうすることでしょう。それが今回のテーマです。

恩を"返す"というと、自分が他人から受けた恩や義理をなんらかの形でお返しするといった感覚を持ちます。それはそれで人として当然なことです。
また、恩を与えたと思っている側の人もその見返りとして何らかの期待感を持つことも普通のことかもしれません。

ただ、この両者間に発生した恩義の感覚がずれたりすると、「恩に着せる」「恩を売る」「恩を知らない」「恩を仇で返す」などと言った感情が生まれ、遺恨問題にもなりかねません。
つい先日もある大物歌手とある大物作詞家がそのようなトラブルを起こし、ワイドショーの話題になっていました。

そういったトラブルの元はすべて"こだわり"にあるのです。
「してやった」「してあげた」という「こだわり」の気持ちが心のどこかにあるからちょっとした恩義に反するようなことがあると「恩をしらない」「恩を仇で返す」という思いになってしまうのです。

でも人である以上どうしても心のどこかで恩の貸し借りの感情を持ってしまうのも仕方のないことかもしれません。
しかし、本来恩とは「着せたり」「売ったり」するものではないのです。
ではどうすればよいのでしょう。

以前「布施」について講釈したことがありますが、ちょうど同じようなものです。
人に何かをして"あげる"ときは布施の精神ですれば良いのです。
布施の心ですれば絶対に「こだわり」や「わだかまり」は生じません。
人に何かをしてあげるとき「布施」だと思えばよいのです。

布施とは喜捨(きしゃ)ですから、捨てる気持ちになることです。
捨てた"もの"には一切頓着しませんね。あとに"こだわり"の心が残りませんからね。
何でも「してあげた」という想いが有って、それを自慢や誇りにしているのを「寄付」とか「寄進」と言います。

「誰が」「何を」上げたかはっきり公表しないと本人が満足しないのが「寄付」行為なのです。凡夫とはそういうものです。
凡夫だから仕方がないというのではなく、仏教の諭すところは"脱凡夫"なのです。
脱凡夫の"こころ"とは布施の精神になれということです。

このように恩義に関してトラブルやわだかまりを避けるには「布施」の精神に立ち返ることが一番です。
よく「掛けた恩は水に流し、受けた恩は石に刻め」ともいいますが、その"水に流す心"が必要なのです。

問題は次の恩を受けた側です。
どんな小さな恩でも、受けた側はその恩を「石に刻み」決して忘れてはいけません。
「当然だ」とか「感謝の必要はない」とか思ったらとんでもないことです。
それこそ地獄行きです。

以上一般的な恩義に関しての双方の心がけについて述べてきました。
さていよいよ最大のテーマでもあるところのその報恩の在り方について考えてみましょう。
これまで何度も触れてきましたように、仏教では「四恩すべて報じ・・・」と諭されています。

国王の恩、三宝の恩、衆生の恩、父母の恩というこの四つの恩に報いることこそ仏教徒にとっての最大の務めであるというその報恩の在り方とはどのようなものでしょう。

国王や国家に対する報恩とは、国のために働くことでしょうか。
税金をしっかり納めることでしょうか。外敵から国を護ることでしょうか。
三宝に対しての報恩とは、仏様に供養したり、仏教の戒律や教えを守ったり、坊さんに布施したりすることでしょうか。

父母に対する報恩とは、親に豊かな暮らしをさせたりする親孝行のことでしょうか 衆生に対する報恩とは、社会の全ての人達に親切に優しくしてあげることでしょうか。
ここでちょっとご注目いただきたいのは例えば「父母の恩」です。

生きている内の親孝行はわかりますが、亡くなってしまった親に対しての孝行とはどうすればよいのでしょう。
これは多分多くの人が思っていることだと思います。
仏壇や遺影にご馳走を上げても食べてくれません。

すてきな着物や暖かい布団もお墓に掛けてあげることもできません。
では感謝とご冥福をひたすら祈ることが親や先祖に対しての報恩なのでしょうか。
それらも決して間違いではありませんが、仏教の目指すほんとうの報恩の形はもっと深いところにあるのです。
これこそ本ページを見た人の得といえるでしょう。(勿体付けてすみません)

まず、報恩には直接的なものと間接的なものとがあるということです。
まず直接的な親孝行とは、生前から親に優しく、心配かけないことでしょう。
これは誰にでも分かりますね。

次の間接的な孝行とは亡くなっている親や先祖に対しての報恩行為をいいます。
実は仏教でいう報恩行為とはこの間接的な形こそ中心になっているのです。
ちょっと難しくなりますがこれからが本題です。

宗祖道元禅師は報恩とは行持(ぎょうじ)だと示されています。
修証義「行持報恩」の中からそれを検証してみましょう。
まず「恩」の実体について考えてみます。
四恩をはじめとして恩にはさまざまな恩がありますが、それらは一見それぞれ皆別個のように思われますがその実体は一つだということです。

まずこの認識を持っていただきたいと思うのです。
あなたが今生かされているのは紛れもなく大宇宙の法則によるものなのです。
この大宇宙の法則が大宇宙の実体であり、これを法身仏といいます。
つまり法身仏とは大宇宙の真理そのものであり、これこそ無始無終の永遠の生命体であるところの毘廬舎那仏(びるしゃなぶつ)とも申します。

ですからわれわれの実体は即ちこの法身仏になります。
つまり、われわれ自身が「法」であり、法がわれわれ自身であるということです。
更に言い換えれば、「法」が「法身仏」であるから、「法」が「恩」であり、恩の実体が法であるという論理になるのです。

この辺ちょっと難しいかもしれませんが、ここが最も肝腎なところですからここをしっかり認識してください。
いずれにしろ、「恩」イコール「法」だということです。
この恩のことを御開山道元禅師は「正法眼蔵無上大法の大恩」(修証義)と示されています。

この場合の「正法眼蔵」とは仏陀所説の法という意味で、仏陀が説き示されたところの、最大、最尊、最上の「正しい法」ということです。
ですから四恩を辿ってみるとすべて「法恩」に帰結するのです。
すなわち「恩」とは「法恩」であるという論理なのです。
このことを念頭において次に進みましょう。

では、その「正法眼蔵無上大法の大恩」に報いるにはどうすればよいのでしょう。

「その報謝は、余外(よげ)の法は中(あた)るべからず。
唯まさに日日(にちにち)の行持、その報謝の正道(しょうどう)なるべし。
いわゆるの道理は、日日の生命を等閑(なおざり)にせず、私に費さざらんと行持するなり。」(修証義)

と道元禅師は示されています。

無上大法の大恩に対しての報恩と、その道は如何にあるべきかを説いたのがこの一節です。
「余外の法は中るべからず」とは「その道以外に真の報謝に的中するものはない」と言う意味です。

次の「唯まさに日日の行持、その報謝の正道なるべし。」というこの一句こそまさに今回のテーマの結論と言ってもよいでしょう。
禅師は、われわれの「日日の行持」こそが、仏恩報謝への正しい道であると明言されているのです。

「行持」の行は修行の行であり、持は護持あるいは持続の意味です。
すなわち毎日の仏道を修行持続することこそが報恩感謝の正しい道であるという意味になるのです。

国王(国家)の恩に報いることとは日々の修行である。
衆生の恩に報いることとは日々の修行である。
三宝の恩に報いることとは日々の修行である。
父母の恩に報いることとは日々の修行である。

日々の修行が報恩感謝であり、報恩感謝とは日日の正しい修行そのものであると申されているのです。
先に「法」が「恩」であると言いました。
なんとなればその法の実践を行持することこそ報恩になるという理屈になりますね。
日々の修行が報恩になる意味がもうお分かりですね。

真理こそ「善」です。
宇宙の真理を仏法と言います。だから仏法こそ絶対の「善」です。
社会の法律に背くことは「悪」であるように宇宙絶対の真理に背くことは「悪」なのです。

ですから、仏法と言う絶対の法則に基づいた生活をすることこそ恩に報いることになるのです。
すなわち「行持」こそが国王の恩、衆生の恩、三宝の恩そして父母の恩に報いる正道なのです。

禅師はさらに、「いわゆるの道理は、日日の生命を等閑にせず、私に費さざらんと行持するなり。」と示されています。

「なおざりにせず」とはおろそかにしないということです。
時間も命もおろそかにしてはならないということです。
「私に費さざらん」とは我欲を張らないということです。
利欲的な生活に堕ちこんで自堕落にならないということです。
「行持するなり」とは「これこそ行持である」との強調です。

仏道修行こそ報恩行持であり浄土の世界に通じるのです。
これまで幾度も申してきましたが報恩感謝の生活こそ仏教の目指すところなのです。
仏法の精神に基づいた日常生活、それがそのまま報恩行であるという・・・これが結論です。

合掌

曹洞宗正木山西光寺