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法話

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法話--平成28年9月--

おもてなし -仏道と茶道に学ぶおもてなし-

「おもてなし」…今では世界的にもすっかり有名な日本語になってしまいました。
その「おもてなし」に魅了されて日本を訪れる外国からの観光客はうなぎ登りに増え、昨年は1,973万人にも達したとか。

「おもてなし」は日本の魅力をアピールするまさに恰好の「文化」といえるでしょう。
日本政府は四年後の東京オリンピックに向かってモティベーションを高め外国人観光客の年間見込み数をなんと3千万人から4千万人まで視野に入れているそうです。

東京オリンピック招致スピーチで紹介されて以来、今や日本人のなかでも改めてその意識が高まってきた「おもてなし」…そこで今回は、その日本文化を代表するこの「おもてなし」の意味とルーツについて考えてみましょう。

広辞苑によると、その語源は、とりなし、つくろい、たしなみ、ふるまい、挙動、態度、待遇、馳走、饗応とあります。
「もてなし」に丁寧語の「お」を付けた言葉であり、その語源は「モノを持って成し遂げる」という意味だそうです。

また、「おもてなし」は言葉通り「表裏なし」、つまり、表裏のない「心」でお客様をお迎えすることでもあるという俗説もありますが、これはまさに論外中の俗説でしょう。

「おもてなし」は特に平安、室町時代に発祥した「茶の湯」から始まったと言われます。
茶道とは貴人や客人や大切な人への気遣いや心配りの心を養うものであり、その精神は実は仏教に由来していたのです。

では、その「仏教精神」とは何なのでしょう。
それはズバリ言って「菩提心」の実践です。
道元禅師は、「菩提心を発(おこ)すというは、己(おのれ)未だ度(わた)らざる前(さき)に一切衆生を度さんと発願し営むなり」と示されています。

つまり「自分が渡るまえに他の人達を渡してあげること」だというのです。
「度」と「渡」は同義で、「悟りの世界へ導く」という意味です。
そしてさらに、この「菩提心」こそ「仏道極妙の法則なり」と明示されています。

菩提心とは「衆生を利益(りやく)すること」であり、衆生とはすべての「他人様」のことです。
その他人様に差別することなく、己よりも先に利益(りえき)を与えること、その尊い心を「菩提心」と呼ぶのです。

「菩提心」とはつまり仏教の根本的教理だということがわかります。
その仏教精神を芸道の一つとして確立したのが「茶道」です。
つまり茶の湯を通して「菩提心」を修行するのがまさに「茶道」なのです。

では、なぜ「お茶」なのでしょうか。
お茶は、日本が中国の進んだ制度や文化を学び、取り入れようとしていた奈良・平安時代に、遣唐使や留学僧によってもたらされたと推定されます。
そのころお茶は非常に貴重で、僧侶や貴族階級などの限られた人々だけが口にすることができました。

また鎌倉時代、日本臨済宗開祖栄西禅師が宗からお茶を持ち帰り、その効用から製法などについて「喫茶養生記」を著しました。
これは、わが国最初の本格的なお茶関連の書といわれます。
「吾妻鏡」には、栄西が深酒癖のある将軍源実朝に本書を献上したと記されているそうです。

そのように、お茶には薬としての効能もあり貴重なものとして扱われたため、特に高貴な方やお客様をもてなす際の「おもてなし」にふるまわれるようになったのです。

寺院にとって最高に高貴なお方といえば御本尊さまや祖師さまです。
特に我が曹洞宗においては、仏祖の法要の初めには必ず蜜湯とお菓子とお茶が具えられます。
特に開山忌など重要な法要の場合に具えられるお茶を「特為茶(どくいちゃ)」と言いますが、それには文字通り特別なお茶であり最高のお供物という意味があります。

拙僧の持論ですが、今の日本のお茶のおもてなしの原点はここにあると思います。
寺院の仏祖に対するお茶のおもてなしの流儀がやがて武士や平民社会に取り入れられ、お客様のおもてなしとなってお菓子とお茶を出すという文化が形成されていったのです。

足利義光(1358-1408)は、宇治茶に特別の庇護を与え、これは豊臣秀吉にも受け継がれていきました。
村田珠光(1423-1502)は侘茶(わびちゃ)を創出し、これを受け継いだ武野紹鴎(たけのじょうおう)から千利休らによって「茶の湯」が完成し、豪商や武士たちに浸透していきました。

現代の茶道の原型を完成させたのが千利休であり、その茶道の心得を表した言葉が有名な「和敬清寂」です。
実は拙僧、学生時代茶道部に在籍していたこともありチョトだけ茶道の経験があります。

その拙い経験から少し能書きを言わせていただければ、その「和敬清寂」の精神こそ「おもてなし」の心なのです。
ちなみに、和…お互い仲良くすること。敬…お互い敬いあうこと。清…心を清らかに保つこと。寂…悟りの世界を求めること…まさに仏教精神です。

仏教が顕す浄土の世界、その縮図が茶室や茶庭という設定なのです。
つまり、茶道は単なる芸道ではなく、仏教の説く大宇宙の摂理の演出と体感であり、「菩提心」を学ぶ場なのです。

仏教の説く大宇宙の摂理とはすなわち諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三宝印の世界であり、それを悟るための修行が「菩提心」にあるのです。
その心得を表した言葉が「和敬清寂」です。

因みにその他の掛け軸の中でよく見られるのが、一期一会とか日々是好日、本来無一物、水和明月流そして喫茶去などです。
が、これらは皆禅宗の祖録の中にある公案、いわゆる問答集からの引用句なのです。
茶室がまさに仏道修行の場である所以です。

茶道の家元は代々禅宗臨済宗の本山で参禅修行し得度して坊さんの資格を得ています。
それは茶道がまさに仏道の道場であり、その指導者たる者こそ僧侶の位にあるべきだという立場からでしょう。

又、茶道を芸道と考えるとき、思想と趣向、衣装と道具、所作と型が演出される舞台でなければなりません。
これらの要素が統合され世俗的な日常世界を脱却することで、亭主と客が織りなす「和敬清寂」の世界が出現するのです。

ですからそこには、娑婆世界の身分や地位や貧富による差別があってはなりません。
茶室の入口を躙り口(にじりぐち)といいます。
なぜあんなに狭いのかというと、茶室は娑婆世界とは別であるということです。

躙り口を通ることでけがれを落とし、地位や身分の高い人でも頭を下げ同格にならなければなりません。
ですから秀吉も刀を差したままでは入れませんでした。
そこにあるのはお互いに敬い合う心、清らかな我のない心の世界なのです。

お茶を点てもてなす者を亭主(ていしゅ)といいます。
「亭主」という言葉は、首楞厳経(しゅりょうごんきょう)というお経に出てくる言葉で、「客をもてなす一家の主人」という意味で、鎌倉時代から一般に使われるようになり、茶席で茶を点じて客を接待する人という意味からはじまり今日まで続いています。

茶道で表現される「侘び寂の心」とは、表に出過ぎない控えめな心であり、お客をお迎えするに当たり、心をこめて準備をし、目に見えない心を目に見えるものにして表すのが気配りであり心配りです。

そのための努力や舞台裏は微塵も表に出さず、主張せず、もてなす相手に余計な気遣いをさせない…それが「おもてなし」の本質です。

合掌

曹洞宗正木山西光寺