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法話

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法話--平成20年4月--

因縁(その13)-- 公案「百丈野狐」【中編】--

今朝オリンピック聖火が長野市内を走りました。
警察官100人の壁に護られて走るという異様な光景でした。
平和の象徴である筈の聖火が中国に対する抗議の煽りをうけて風前の灯火となっています。

一体なんのための聖火リレーなのかわからなくなりましたが、一つの考え方として言えることは、聖火リレーが開催国の民主主義の程度を示すバロメーターと受け止めれば納得できることかもしれません。

聖火と共に吹き出したチベット問題を中国政府はオリンピアの神からのご神託と受け止めて真摯に向かい合うべきでしょう。
つい先ほど中国政府がどうやらダライ・ラマ法王との話し合いに応じると報じられていましたが、それが結果的に単なるポーズに終わらないことを願いたいと思います。

これからの世界の平和と安定を考えたとき、世界人口の5分の1を占めるという超大国中国の存在は極めて大きいのです。
これから将来必ずや世界のリーダーになるのですから、何としても真の開かれた民主主義社会を確立して欲しいものです。
「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る」という孔子の格言に学んで、変な欲得など捨ててチベットを解放し"人権国家"を宣言されたらどうでしょうか。

さて本論に入ることとしましょう。先月からの宿題は「なぜ」でした。
老人が五百回も野狐に生まれ変わったというその原因が「不落因果」の一言であったわけですが、それが"なぜ"間違っていたのか。
そして、百丈が言った「不昧因果」の一言が"なぜ"正しかったのか。
この公案を解く鍵がここにあると言ってもよいでしょう。

では「不落因果」がなぜ間違っていたのでしょう。
それはかの老人が「対立観念」という分別意識から「不落因果」と答えたからです。
いうまでもなく対立観念というのは分別妄想にほかならないのです。
妄想から出た答えは迷いですから即ち「間違い」なのです。

他方、「不昧因果」が正しかったのは、悟りから出た答えだからです。
悟りとは一切の対立観念の無い境地を言います。
悟りの境地から出た答えは真理ですから即ち「正しい」のです。

つまり答えが間違いか正しいかは悟っているかどうかに掛かっているということです。
「不落因果」がなぜ間違いで、「不昧因果」がなぜ正いかったかという、その「なぜ」の答えがこれで分かったかと思います。わかってみれば答えは簡単なものです。

さらに確認ですが、「不落因果」が間違いで、「不昧因果」が正しいと言う判断は言葉の意味ではなく、それを使う人が悟っているかどうかに依るということです。
この認識が極めて重要なポイントです。

例えば、百丈の答えた「不昧因果」が正しいからと言って、それをかの老人が答えたとしてもそれは正しい答えにはなりません。
逆に、百丈がかの老人の「不落因果」の答えを言ったとしたら、それが正しい答えになってしまうということです。そういう意味になりますね。

つまり「不落」も「不昧」も答える人が悟っているかどうかでそれが正しいかどうかが決まるということです。
ですから単に言葉の意味に囚われてしまっていては公案の狙いが分かりません。
公案の"言葉"に惑わされないことが肝腎です。

これは全ての公案に言えることですが、公案の狙いを読み取るためにはまず一切の対立観念を捨て去ることです。
今回の「不落」と「不昧」というこの二つの認識はまさに対立観念にほかならないわけですからまずこの"分別"を断ち切ってこそ公案の意図が見えてくるのです。

かの老人が五百生に亘って野狐の身に堕ちたのは因果の実体を知らなかったからです。
因果の実体には「不落」も「不昧」も無かったのです。
分別という迷いに縛られていた結果、彼の答えはすべて"迷いの答え"に過ぎなかったのです。

彼はその迷いからさらに、「人間」が「善」であり、「狐」が「悪」だという差別観念に陥ってしまったのです。
「善」と「悪」という差別観念はすべて対立観念から来るのです。
つまり彼が野狐の身に堕ちてしまったのはまさに彼自身の差別観念という迷いによるものに他ならなかったのです。
これこそ自業自得と言う"因果"でしょうか。

ですから彼が野狐の身から脱するにはまずこの「人間」と「狐」という対立観念から脱却するしか無かったのです。
そこで百丈の言った「不昧因果」の一言はこの間違った観念を打ち破る正に"一転語"であったのです。
その瞬間その老人は「人間」と「狐」という分別妄想から開放され豁然として因果の実体を悟ったのです。

このように、この公案の狙いはまさにこの「因果の実体」を悟ることにあったのです。
どうですか?お分かりいただけましたか。
そしたらさらに、その老人がたちまち野狐から解放されたという、その「解放」の意味も自ずと分かる筈です。
つまり、彼は悟ったことで、野狐であった己は元々成仏していた存在だと分かったわけですから、そのことで彼は野狐であった自分自身に納得できたのです。
「納得できたこと」がすなわち「解放された」という意味になるわけです。

黄檗が「それならば間違わぬ法を説いたら一体何に生まれ変わっていたのでしょうか」と問いましたね。
その意味は、「野狐は野狐でそれ以外の何ものでもないでしょう。」「野狐は野狐で完璧でしょう。」という意味です。
黄檗がまさに百丈の意図を見抜いていた一言と言えるでしょう。

そして、百丈が黄檗に「もっと近くへ寄れ、教えてやろう」と言いました。
それなら聞かせて貰いましょうと、黄檗は師匠に近づくなり師匠の横面にピシャリと一撃を与えたのです。
それに対して百丈は「わしこそ赤鬚の達磨だと思っていたらここにもう一人の赤鬚の達磨がいたわい」といって手を叩いて大喜びしたのです。

百丈は黄檗がどの程度理解しているか試そうと思い、多分百丈の方から黄檗の横面をひっぱたき、「野狐以外に何があるかー!」と教えるつもりだったのでしょう。
ところがどっこい、逆に黄檗の方が一枚上手だったのです。
「そんな事くらいとっくに分かっていますよ」といって逆に師匠の横面を先にひっぱたいてしまったという次第です。
百丈は黄檗のその力量を認め、自分以外にも同じ悟った仏がここにおったわいと言って喜んで黄檗の悟りを証明したのです。

結論としては、「因果」に「不落」と「不昧」があると思っていたのはまったくの妄想だったのです。
妄想はすべて対立観念という分別から起こるのです。
だから一切の対立観念を捨てきったときに因果の実体が明らかになるのです。

その「因果の実体」について、さらに次回の「提唱」と「頌」で明らかにしましょう。
それとあと、この公案の内容、つまり老人も野狐も実話のことなのかどうかという疑問です。
このことについても次回ではっきりさせましょう。

合掌

曹洞宗正木山西光寺