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法話

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法話--平成30年5月--

四諦 八正道 正見 その3 ―極妙の法則―

前回、良寛さんの「人間の是非一夢の中」という句を紹介しましたが、この句は、「半夜」という七言絶句の中の句であり、この前に「回首五十有余年」首(こうべ)を回(めぐら)す五十有余年という起句があります。

良寛さんはしんしんと降る雨の夜、寝付かれなかったか眼を覚まされたなか、ご自分の五十有余年の人生を振り返ってこの詩を詠まれたといわれます。
「人間」は「にんげん」とも「じんかん」とも読まれます。

人間世界での是や非、善や悪、優劣など、それらはみんないい加減な夢のようなものだというのです。
なぜならば、人間が間違いないと思い込んでいる価値判断は所詮人間のつくった「モノサシ」での判断であり、その目盛りの中心はいつも「わたし」にあるからです。

前回の「天上天下唯我独尊」という言葉も人間のモノサシだったら傲慢以外のなにものでもありません。
お釈迦さまの言葉として、宇宙絶対の真理というモノサシによるものだからこそまさに「正見」なのです。

「正見」の反対が「我見」「邪見」です。
因果の道理も業報の道理も信じない自己中心的なよこしまな考えが「邪見」です。
立場や都合によって逆転するような善悪こそまさに邪見です。
どこまでも天地の道理に則った「是非」でなければなりません。

伝教大師最澄は、「発(おこ)し難くして忘れ易きはこれ善心なり」と語っておられます。
この「善心」こそ「正見」から生まれた「私心」のないものです。
主観的モノサシに捕われるのが「私心」です。

天地の道理に背むき自ら招く苦しみ、そんな苦しみや不幸に陥らないために「私心のない善心」を正見は説いています。
その実践は極めて単純明解、只「悪いことはするな、善いことをせよ」です。

「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」
これは「七仏通誡の偈」(しちぶつつうかいのげ)と呼ばれるもので鳥窠道林禅師(八二四年寂)が、白楽天(八四六年寂)の問いに答えたと言われる有名な句です。

仏教史上特に有名なエピソードの一つとして伝わっています。
白楽天が道林禅師に「いかなるか仏法の大意」(仏教の基本は何ですか)と問われました。
それに対し禅師は、「悪い事はするな、善いことをせよ」と答えたのです。

それに対し白楽天は、「そんなことは三歳の子供でも知っている」と返されたのです。
それに禅師は、「三歳の子供でも知っていることを、八十の老翁が実行することはできない」と叱咤され、白楽天は拝謝して去ったといわれます。

道元禅師は、「早く自未得度先度佗(じみとくどせんどた)の心を發(おこ)すべし。その形陋(いや)しというとも、此心を發(おこ)せば、巳(すで)に一切衆生の導師なり、設(たと)い七歳の女流なりともすなわち四衆の導師なり、衆生の慈父なり、男女を論ずること勿(なか)れ。これ仏道極妙の法則なり」と垂示されています。

「私心のない菩提心を持った人であれば、たとえ僅か七歳ばかりの童女であろうとも、四衆の導師であり、慈父ともいうべきものである。そこに男女の差別などまったくない。これは仏道極妙の法則である」と喝破されています。

「四衆」とは、比丘、比丘尼、優婆塞(在家の信士)、優婆夷(信女)のことです。「男女を論ずることなかれ」という文句について一言言わせていただければ、わが宗祖道元禅師の女性観を如実に語られているということです。

仏教における男女両性観は、いわば男尊女卑的でありますが、禅師は法の上から、さらにいうならば修行と悟りの上から、男女を全く平等に観られています。
禅師の女性観ともいうべきものは、「正法眼蔵礼拝得髄」の巻を通じて十二分に窺うことができます。

菩提心を發した者は、老若男女、年齢に関係なく仏道修行の導師である。これは「仏道極妙の法則」であると断言されています。
今からおよそ750年も昔(鎌倉時代)に禅師はすでに老若男女に何の優劣もないという真実を見極められていたのです。

真実は時代によって変わるものではありません。立場や都合によって変わるものでもありません。
よく、「時代が違うから」とか、「立場上」から“持論”を主張される人がいますが、それらは「正見」とはいえません。

正見は「仏道極妙の法則」が担保になっているのです。  人間界は御存知六道輪廻のうちの一つです。即ち迷いの世界であり否応なしに四苦八苦の宿命に見舞われている世界なのです。

ですからどんな人でも、人間として生まれてきた以上四苦八苦から逃れることはできません。
ただ言えることはその四苦八苦の有様には個人差があるということです。
たとえば「病苦」です。その実態は実に百人百様です。

ピンピンコロリの人から半生も寝たきりの人まで様々です。
拙僧も多くの人の終末を見てきましが、その実態はまさに百人百様です。
幸福な人生を全うするには健康が欠かせません。ですから拙僧は「病気にならない生き方」にこだわっているのです。

人の幸福を左右するのはそんな体の健康だけではありません。
仏教が最も問題視しているのが「心の健康」即ち「貪・瞋・痴」との関わりです。
人が起こす悪事の源の殆どがこの三悪趣に因るからです。

この悪趣の実態もまさに百人百様です。
警察沙汰もスピード違反程度だけで終わる人もいれば、人生の殆どを牢獄の中で送る人までいます。
この三悪趣の根源をいかにコントロールするかに人生の幸福が掛かっていると言っても過言ではありません。

掛けがえない人生とはよく言ったものです。
そんな大事な人生を少しでも善いものにしたいというのが万人当然の願いです。
そのためのテキストが八正道だとしたらそれを活用しない手はありません。

有史以来人の生活と科学は目覚ましい進歩を遂げました。
人類が続く限りその流れは決して止まることはないでしょう。
しかしながら、人の心に翻ってみると、その進歩は科学に比例して豊かになっているようには思えません。
否、むしろ心は退化傾向にあるようにさえ思えてしまいます。

実際、地位や名誉や富、教養がある人でも全てが善人であるとは限りません。
善人であるための担保は只ひとつ善心です。
善悪の有象無象が蠢く人間界、三歳の童女が知っている良識が八十歳の老翁にも難しいという、そんな教訓の一つが只今炎上中の日大アメフト問題でしょう。

加害者の宮川選手は「つぐないの一歩として、真実を話さないと、顔と実名を公表してこそ真の謝罪」と勇気をもって会見に臨みました。
その誠意ある若者の態度にむしろ感動してしまいました。

それに比べ“立派な大人”の監督やコーチは言い逃れとウソに徹しました。
自浄能力のない大学の組織。長年蓄積された悪趣の膿が出るべきして出たのです。
まさに「因果の道理歴然として私なし」(道元禅師)です。
貪瞋痴による業報に容赦はありません。

そんなウミの“最大級”のモデルこそ森友、加計問題でしょう。
隠蔽、改ざん、虚偽の証拠を次々に突き付けられてもなお反証もなしに否定するだけの厚顔無恥の安倍さん。そんな人が総理を続けていること自体全く理解できません。

安倍さんの権力の私物化をこれ以上許しておいて良いのでしょうか。
事実を正し理不尽な悪事を許さない。そこには与党も野党もありません。
与党議員は安倍さんに阿る前に、国民から選ばれた国会議員であり国民の負託を担っている立場であることを自戒し、その矜持を示して欲しいものです。

さて、残念ながら毎日新聞特別編集委員の岸井成格さんが亡くなりました。
「戦後レジームからの脱却」を主張し、日本の立憲主義を危うくさせる数々の法案に対して容赦ない批判をしてきました。

戦後日本が築き上げてきた保守の崩壊に並々ならぬ危機感を感じていました。
分り易い解説と温厚な人柄の中にも強い正義感を持った人でした。
そんな優れたジャーナリストがまた一人いなくなりました。
心よりご冥福をお祈りいたします。

合掌

曹洞宗正木山西光寺