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法話

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法話--平成30年6月--

四諦 八正道 正思惟 ―仏は無相―

四諦の「諦」は「真実、真理」を意味し、道諦はその安らぎの世界、即ち悟りへの実践の方法を示す道であり、その中味が八つあることから八正道といいます。
正しいとは右でも左でもない真ん中、つまりかたよりのない中道ということです。

人は偏よった考え方に立つことで偏見、偏執を持ち、ものごとが正しく認識できなくなります。
誤った考え方から悩みや苦しみが生じます。
だからこそ人は常に八正道に心がけなければなりません。

正見(かたよらないものの見方)
正思惟(かたよらない考え方)
正語(かたよらない言葉づかい)
正業(かたよりのない行い)
正命(かたよらないせいかつ)
正精進(かたよらない営み)
正念(かたよらない心もち)
正定(かたよらなき落ち着き)

「正見」については前回までに述べてきましが、今回は二つ目の「正思惟」(しょうしゆい)について考えてみましょう。
これは「かたよりのない考え方」ということです。

経典には、相反する二つのうち、一方を取ってそれに捉われるならば、それは誤りであると説かれています。
私たちはともすると、善と悪にとらわれ、邪と正にとらわれ、美しいものとそうでないものにとらわれて、安心したり、不安になったり、喜んだり、悲しんだりします。

釈尊は、人間の苦しみ、迷いの根源を「執着」と洞察し、善も悪も、正も邪も、美も醜も、長も短も、重も軽も本来固定的、実体的なものではなく、すべて執着、固執による偏見からきている認識だと言われます。

つまり善悪の判断が「執着」から生まれる偏見によるものであれば、その認識は誤っているのです。偏見、偏執がすべての迷いや悩み苦しみの根源なのです。
それは前回指摘したように、間違った「モノサシ」のせいなのです。

偏りのないモノサシで考えなければ正しい判断にはなりません。
正しいモノサシでものごとを考える・・・これが正思惟です。
その基本は、先入観や思い込みや主観などにとらわれないということです。

そして「ありのまま」の意味を考えてみることです。
ものごとをありのままに見るのが、さとりであるということは、これまでも触れてきましたが、如実知見・・・まさに「実のごとくにものごとを見る」ということです。

ある僧が、「曲がりくねったこの松をまっすぐ見た者には褒美をとらす」と木片に書いたという。どこから見てもまっすぐ見られない。
相談をうけたある僧が、「簡単なことだ。ずいぶん曲がった松だと言えばよい」と答えたそうです。

これは一休禅師と蓮如上人のエピソードとして伝えられています。
「まっすぐ」とは「ありのまま」ということです。曲がったものを「ありのまま」見られないという凡夫のこころを見事に突いています。

禅問答のような話ですが、松の木が「曲がって」いるという事実を「そのまま見る」ことが「まっすぐ見る」ことです。
「ありのまま」という事実以上の真実はありません。人は「ありのまま」を「有相」という色眼鏡で見ているのです。

仏法には有相(うそう)と無相(むそう)という二つの考え方があります。
有相とはものごとを実態的にとらえる考え方であり、無相とはすべての存在が空(くう)なるもの、つまり無我なるものと捉える考え方です。

人は、どんなものでも実態にこだわります。
どんな形か、どんな色か、どんな大きさか、どんな重さか、どんな質か。
その実態に応じてそれぞれ勝手な基準で価値判断がなされています。

格好や色の違いや大小でそのものの価値に歴然とした格差をつけます。
たとえば、スーパーで売られているキュウリ一本にしても、曲がったものはまっすぐなものより劣っているとされ値段は安くなります。

キュウリそのものの実体(中味)は変わらないのに形で優劣が付けられてしまうのです。
同じ種から育ったキュウリなら質は同じ筈なのに見た目で格差をつけるのが人のモノサシです。

トマトもかぼちゃもしかりです。
イヤ、野菜や果物だけならいざ知らず、まさに人に対しても同様なことが起こっているのです。
同じ人間なのに「人種」ということばがあります。
その言葉は人をまっすぐ見られないモノサシになっています。

つまり人のモノサシは所詮人のかたよったモノサシなのです。
そんなモノサシの世界が「有相」の世界であり、そんなモノサシのない世界が「無相」の世界と言ったらよいでしょう。
前者が迷いの世界であり、後者が悟りの世界です。

ですからわれわれは、そんなモノサシのない正思惟を心掛けなければなりません。
形に限定されるとそれだけのものになってしまいます。
真実は形を超越した無相です。
形あるものの実体は無相なのです。
無相が真実であり、それが仏の姿なのです。

さて、ここで疑問になるのが、「無相が仏の形」であるならば、では仏像とは何か。
仏像は形でありまさに有相ではないかという疑問です。
確かに我々の周りには沢山の仏像があり礼拝し供養しています。
まさに当然の疑問です。

「歎異抄」には、阿弥陀仏のお姿が経典に説かれているが、それは方便の姿であると示されています。
「方便」・・・つまり真実の仏を認識させるための「手段」であるということです。
「この一如(真理)よりかたちをあらわして方便法身となのりたまいて」(親鸞聖人)

仏、仏身という真理を悟った存在と仏像といったものは違うものであり、真理そのものは「法身はいろもなし、かたちもましまさず。
しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり」(親鸞聖人)

その色なきもの、形なき真理を具体的に示し、人びとの認識の対象とする手立てとして「方便形像」が生まれたのです。
それが方便法身のお姿であり、真理そのものではなく方便法身は真理の具体的顕現であり、この形を通して、真理そのもの(法身仏)に出会うのです。

仏像の意味、それは法身仏を顕した「方便仏」だといわれるのです。
以前から拙僧も指摘してきたことですが、仏教は本来「偶像崇拝」の教えではないということがこのことからも分かるかと思います。

「すべての存在は空、無相であるという立場に立ち、「有無の邪見を破(は)すべしと世尊はかねてときたもう」(親鸞聖人)

「仏祖はいかにして成るか、それはあるがままの相(すがた)を究め尽してなるのである」正法眼蔵(道元禅師)

「あるがままの相」こそ「偏りなき」「こだわりなき」「捉われなき」実相であり、その実体は無相なのです。
それを空と言い、真如と言い、そして仏と呼ぶのです。

合掌

曹洞宗正木山西光寺