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法話

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法話--平成21年9月--

こころ(15)--三心(喜心)--

道元禅師は「典座教訓」(てんぞきょうくん)の中で三つの心得を提唱されました。
「喜心、老心、大心」の三心(さんしん)です。
典座(てんぞ)とは、修行僧たちの食事を司る役職のことであり、いわば修行道場の炊事係りのことです。
その役職における訓誡を著したものが「典座教訓」です。

道元禅師は"典座"を通して、真の弁道(修行)とは、坐禅や祖録公案だけではなく、むしろ日常生活のあらゆる場面が修行そのものであることを学んだのです。
それは同時にどんな役職や仕事においても貴賤や優劣は無いということの証明でもあったのです。

一切の分け隔てのない世界が禅の世界ですから、人の世界も役職や職種において分け隔てがあろう筈はないのです。
禅師はその禅の一大宗乗を"典座"の中から悟ったのです。
今回からその経緯と三つの心得、「三心」について学んでみたいと思います。

禅というと何か特別なものであって一般人には近い寄り難いような印象があるかも知れませんが、禅の目指すところは実は「あたりまえ」のことなのです。
「あたりまえ」とは言うまでもなく特別でも非凡でもありません。

「あたりまえ」とは「日常生活のあらゆる場面」のことであり、その中にこそ「真理」があり「法」があるのです。
ですから禅はこの万物万民に不偏平等の「あたりまえ」にこそ「悟り」があると捉えるのです。

だから「修行」が「日常生活のあらゆる場面」から乖離していたらそこには決して仏法も悟りも無いのです。
つまり「修行」とは「日常生活のあらゆる場面」そのものだということになります。

若き道元禅師にとって当初修行とはあくまで坐禅や公案、祖録に専念することであって、それ以外のものが修行の対象だとは思ってもみませんでした。
ましてや炊事など単なる雑用に過ぎないという観念でしかなかったのです。

宋に渡った弱冠二十四歳の禅師にとってそれは無理もないところだったのかもしれません。
日常生活のあらゆる現場が修行であるという、その宗乗にはじめて気付かせてくれたのが二人の老典座との出逢でした。

炊事に対して全身全霊で向き合っている二人の老和尚との問答から若き禅師は深い感動を覚えると同時に修行の何たるかを思い知らされたのです。

この二人の老典座との出逢いの話は何度読んでも感動をおぼえるところです。
その場面を菅原昭英氏監修の「口語訳典座教訓」より見てまいります。
まず寧波(にんぽう)の港での最初の老典座との出逢いです。

私が宋の寧波の港に停泊中の船にとどまっていた頃のことです。
日宋貿易船の船長と話しをしているところへ一人の老僧がやってきました。
年の頃は六十くらいです。

まっすぐ船内に入って来て日本の商人から椎茸を買ったのです。
そこで、私はその老僧を招き入れてお茶を差し上げました。
どちらの方かと尋ねると、阿育王山広利寺の典座とのことでした。

さらに老僧はこう言いました。
「私は中国奥地の四川省のうまれ、故郷を離れて四十年経ち、年は六十一になりました。
先年、孤雲道権師が住持をされているさなか、阿育王山を訪ねる機会があり、僧堂に正式に居を構え修行することを許されたのです。
それ以後漫然と過ごしていたところ、昨年、夏の集中修行期間が明けると、阿育王山の典座職に任命されたのです。

明日は五月五日、端午の節句だから、修行僧たちになにかご馳走をつくってあげたいと思うのですが、適当なものがありません。
そこで、汁入りの麺でもつくろうとしましたが、あいにくだしに使う椎茸がありません。
私がわざわざこの船までやってきたのは、椎茸を買って帰り、修行僧たちに食べさせてあげようというわけです。」

私は老僧に尋ねました。「お寺を出られたのは何時頃ですか。」 老僧は「昼をすませてからです」と答えました。
私がさらに「阿育王山からここまでどのくらいの距離がありますか」と問うと、「さあ、二十キロメートルたらずですかな」との答えです。

私が「それで、お寺には何時頃お戻りになるつもりですか」と言うと、老僧は「たった今、椎茸を買ったので、これからすぐ帰るつもりです」と答えました。
私は、「今日、思いがけなく典座さまにお会いし、船内でお話をしました。
これはたいへんよいご縁ではないでしょうか。ぜひ、お食事を差し上げたいのですが」と言いました。

すると、老僧は「それは無理です。自分が仕切らないと、明日の食事が整わないから」と言いました。
そこで私は言いました。
「お寺には同じ仕事をなさる方がおられるでしょうから、食事をつくる人はほかにもおられるでしょうに。
典座さまがおられなくとも、お食事の用意ができないわけでもないでしょう」

すると、老僧はこう答えました。
「私は年を取ってから典座職を仰せつかった。つまり老いらくの修行だから、この仕事を他人に譲るわけにはいかないのです。それに、ここへでかけるとき、外泊の許可をもらってこなかったしね。」

私はさらに言いました。
「そのようなご高齢の身では、ひたすら坐禅修行に専念され、古人の公案などを勉強しておられればよいのに、どうしてわざわざ面倒な典座職に就かれ、厨房のお仕事に精出しておられるのですか。それでなにかよいことがありますか。」

すると、老典座は大笑いをして、こう言いました。
「外国から来られた好青年よ、まだ修行というものがおわかりでないようですな。
文字というものをご存知ない。」 それを聞いて私ははっと驚くとともに恥ずかしくなりました。

そこですぐさま老典座に問い返しました。
「それでは文字とはどういうもので、仏道修行とはどういうものでしょうか。」 老典座は「その点を見逃さずに質問したのはまさに仏道修行にふさわしい人になれる証拠です」と答えました。

私はそのとき、その意味がわかりませんでした。
すると、典座が言われました。
「まだよくおわかりでないようなら、後日、阿育王山に私を訪ねていらっしゃい。
ひとつ、文字がいかなるものか、大いに議論してみようではありませんか。」 そして、典座は立ち上がり、「もう日が暮れる。急いで帰るとしよう」と言い残して、立ち去られました。

同じ年の七月、私は天童山景徳寺で修行をすることになりました。
ある日、例の阿育王山の老典座が来られ、再会しました。
典座は「夏の修行期間が終了したら故郷に帰ることにしたのだが、たまたま同じ仲間から、あなたがこちらにおられると聞き、どうしてもお会いしたくなりましてね」と言いました。

私はそれを聞いて大喜び、たいへん感激しました。
さっそく典座を招き入れて話を交わしているうちに、過日、船内で会ったときに問題になった文字と仏道修行に話が及びました。
典座が「文字を学ぶ者は文字のなんたるかを知り、仏道を修行する者は仏道修行とはなにかを理解することが大事です」と言いました。

そこで、私は「文字とはなんですか」ときくと、典座は「一、二、三、四、五、これが文字です」と答え、「では仏道修行とはどのようなことですか」と問うと、「われわれの住むこの世界が、どこでもありのままに見えることですよ」と答えました。

ほかにもいろいろ議論しましたが、ここでは省略します。
私が少しばかり文字のなんたるかを知り、仏道修行のなんたるかを理解したのはまさしくこの老典座のおかげです。
これまでのいきさつを私の師である故明全和尚さまにお話したところ、和尚さまはたいそうお喜びになりました。

後に、私は雪竇重顕(せっちょうじゅうけん)禅師が修行僧向けに書いた次のような詩文を読むことがありました。

「一、七、三、五、これが文字である。
世の森羅万象を説明してきたが、それだけでは頼りにならない。
夜が更けて月はこうこうと照り輝き、大海原に降りそそぐ。
黒龍の顎下(あごした)にあるという得がたい宝玉が、なんと一面いたるところに見られるではないか。」

これは、かつて阿育王山の老典座が話したことと一致するではありませんか。
私はあの老典座こそ真の仏道修行者だという思いをいよいよ強くしました。

この老典座との出逢いが若き道元禅師にとって真の弁道(修行)との初めての出逢いだったと言っても過言ではないでしょう。
文字とは、一、二、三、であり、仏道修行とは、われわれの住むこの世界が、どこでもありのままに見えることだという、つまり、「あたりまえ」のことなのです。

「夜が更けて月はこうこうと照り輝き、大海原に降りそそぐ。」とは、天地宇宙の"ありのまま"の姿を言っているのであり、「得がたい宝玉」とは、「悟り」のことであり、「なんと一面いたるところに見られるではないか。」とは、森羅万象のすべてが悟りそれ自体だということです。

「ありのまま」と「あたりまえ」が修行であることが説かれています。
「あたりまえ」がわかれば、文字はなぜ一、二、三、なのか。
一、二、三、がなぜ文字なのかがわかります。
「ありのまま」が修行であることが分かれば即ち、坐禅も典座もまったく"同じもの"だとわかります。

そのことを悟った道元禅師は「山僧、聊(いささ)か文字を知り弁道を了ずるは、乃(すなわ)ち彼の典座の大恩なり。」と深く敬意と感謝の言葉を述べられています。

どんな仕事であろうとも坐禅と同じ弁道(修行)であるという思いがあれば喜びの心をもって仕事ができるのです。
それが即ち「喜心」ではないでしょうか。

この心こそ現代人に最も欠けている一つかもしれません。
現代人が喜びの心を失ってしまった最大の原因は報恩感謝の心を失ってしまったことです。
ではどうしたらよいのでしょうか。

それにはまず仏法僧の三宝に帰依することです。
禅師は「教訓」の中で示されています。
「万法の中、最尊貴なる者は三宝なり。」 (あらゆるものの中で最も尊いもの、最もすぐれたもの、それが三宝です。)

「此の三宝受用の食を作ること、豈に大因縁に非ざらん耶。尤も以って悦喜すべき者なり。」 (この最高最良の三宝に召し上がっていただく食事を作ることができるのは、なんとありがたいめぐり合わせだろうと喜ぶべきです。)

「能く千万生の身をして、良縁を結ばしめんが為なり。此の如き観達の心、乃ち喜心なり。」 (千回万回生まれ変わるはずのわが身に、この良いめぐり合わせが結実するように努力するのです。このように深い心で見ることが、すなわち喜心です。)

三宝に帰依することで必ず報恩感謝の心が育ちます。
ご本尊さまご先祖さまに毎朝手を合わせることで「喜心」が生まれます。
「喜心」こそ幸福の証なのです。

合掌

曹洞宗正木山西光寺