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法話

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法話--平成24年1月--

十三仏(釈迦牟尼仏)--その10 遺言--

新年おめでとうございます。
昨年は千年に一度といわれる大震災に見舞われました。
それに人類史上最悪の原発事故も加わり、今年も大変な試練が続きそうです。
まだまだ先の見えない年になりそうですが、少しでも早く復興が進むことを願わずにはいられません。

遺偈・・・

禅院では、僧侶は本来毎年年頭にあたって、自己の現在の境涯を詩偈にして、これから一年間の、言わば"辞世の句"とする慣わしがあります。(もっとも今日の禅僧の多くは必ずしもやっているようには思えませんが)
これを「遺偈」(ゆいげ)と言います。

遺偈は、遺誡偈頌(ゆいかいげじゅ)の略で、歴代の高僧碩徳が入滅に際して、後人のために自己の境涯を示した漢詩です。
いろいろな形があるようですが四言古詩の形が一番多いようです。
これは一句が四字で、それを四つかさねたもので、詩としては一番短いものです。

まずは、天童如浄禅師の遺偈をご紹介しましょう。
六十六年    六十六年
罪犯彌天    ざいぼんみてん
打箇孛跳    箇のぼっちょうをたして(本来「孛」は足偏があります)
活陥黄泉    いきながらこうせんにおつ
六十六年の生涯、仏天を汚したが、個体(肉体)を飛び出して、生きたままあの世に参る(愚僧訳)

ご自身の「天童」から謙遜して「罪犯彌天」を表しているのではないか。
「活きながら」とは、不生不死の仏陀の実体を示したもので、自分は仏陀として永遠に生き続けるという自負をあらわしたものです。

次に、永平道元禅師の遺偈です。
五十四年    五十四年
照第一天    第一天を照らす
打箇孛跳    箇のぼっちょうをたして
觸破大千    大千をそくはす
五十四年の生涯、仏天を照らす、個体(肉体)を飛び出して、三千大千世界を突き破る(愚僧訳)

「第一天」 の「天」とは、「仏天」の「天」と、師である如浄禅師の「天童」の「天」を掛け合わせたもので、「照らす」は、「仰ぎ見る」と訳くしてはどうでしょうか。

「箇のぼっちょうをたして」は、あえて如浄禅師と同じ句を使っています。
「三千大千世界を突き破る」とは、仏陀となり三千大千世界の主として永遠に生き続けるといった意味で、あえて自己の境涯を如浄禅師の詩に重ね合わせたようで、道元禅師の師に対する並々ならぬ想いが感じられます。

遺言・・・

では、開祖釈尊は入滅に際してどんな遺偈を残されたのでしょうか。
もちろんインドには漢詩などありませんから、それは遺言と言ったほうがよいかもしれません。

釈尊は、臨終に際して、弟子から「これから何を拠り所にして生きていけばよいのですか」問われ、「拠り所は二つある。一つはお前たち自身、もう一つは私の教えである」と言われました。いわゆる「自灯明、法灯明」の教えです。

釈尊は、絶対者を信仰して、「そこに救いを求めよ」とは言いませんでした。
誰か跡継ぎを指名し、「その者の言うとおりに生きよ」とも言いませんでした。
つまり、誰かに導いてもらえるとは思うなということです。

「悟りへの道順は教えておくから、それを頼りに自分で進んでいきなさい」ということです。
「立派な教え」と「たゆまぬ自己精進」、この両者が対になってはじめて釈尊の遺言は実を結ぶのです。

四つの遺言・・・

釈尊はさらに臨終に際して、四つのことを遺言されました。

第一は、「教法と戒律を師とすること」です。
釈尊は自分が涅槃に入ってもそれで自分の活動が終わるわけではないと言われました。
すなわち、今後は法と律とを師として修行をなすよう言われたのです。

第二は、「長幼の序、上下の秩序を尊重すること」です。
このあと、釈尊が亡くなり、弟子たちだけになったら、「釈尊の弟子」という点では同じであっても、そこには必ず上下の順序があり、お互いを尊重し合わなければならないということ。

その基本は、まず先に出家した者が先輩であり、1日でも出家が遅ければ後輩になるということ。
生まれた年の順序ではなしに、修行僧になる戒律を受けた日時が、先輩・後輩を区別する基準になることです。

深い悟りを得た者や、学問のある人などは、それなりに尊敬されますが、しかし教団における長幼の順序は、出家した日時で決まるのであって、後輩は先輩に対して、無条件の尊敬を捧げるのです。

第三は、「小小戒の廃止」です。
修行僧には二百五十戒というほどの沢山の戒律がありましたが、釈尊は、自分の滅後には、もし修行僧の教団が希望するならば、小小戒(しょうしょうかい)は廃止してもよいと申されました。

しかし、中でも殺人・性交・盗み・嘘の四条は、波羅夷罪(はらざい)といって、最も重い罪で、これらの罪を犯した者は即教団から追放されることに変わりはありませんでした。

第四は、チャンナ比丘に梵檀罰を与えることでした。これだけが個人的なものです。
チャンナは、釈尊が王宮から出城し、出家するときの従僕であったことを自慢し、他人を軽蔑し、粗暴の行為があったのです。

釈尊は、その愛弟子のことを心配され、彼に梵檀罰を与えることで折伏させようとしたのです。
チャンナはその時、中インドの西コーサンビーにいて、あとから阿難尊者からこのことを聞き、悲しみと驚きで失神したといいます。

その後、すっかり改心したチャンナは、熱心に修行し、ついに阿羅漢の一人になったということです。
忌わの際、愛弟子の一人を心配され、折伏させるための遺言を残されたことに、"仏陀釈尊"の中に、"人間釈尊"の愛情を感じさせられます。

釈尊は、いよいよ般涅槃される直前にも、弟子たちのことを思われ、「疑問があればいまのうちに何でも聞きなさい」と三度も繰り返し問われ、「友だちに問うよう気軽に問いなさい。どんな疑問も残さないように」と逆に気付かわれたのです。

そして最後に釈尊は申されました。
「いざ、修行僧たちよ、汝らに告げよう。
もろもろの存在は変化する性質のものである。諸行は無常である。怠らず修行せよ」

これが釈尊の最後の言葉でした。
そして、瞑想に入れ、八十年のご生涯を終えました。
釈尊が涅槃に入られたとき、大きな地震が起こり、天の太鼓(雷鳴)が轟いたといわれます。

合掌

曹洞宗正木山西光寺