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法話

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法話--令和3年9月--

太平洋戦争の真実 その16 ―戦争の天才:石原莞爾-2- ―

東京裁判が石原莞爾を法廷に呼んだのは、東條英機を死刑にするための証拠を得るのが目的でした。
遂に裁判長は、核心に迫る質問を投げかけました。

「あなたは、東條英機と思想上の対立があったと聞きますが?」
これに石原は、「ない」と素っ気なく答えました。
しかし、裁判長は続けます。「いやいや、そんなはずはないでしょう。あなたは東條と対立していたはずです。」

この問いには、石原も否定はしませんでした。
「ああ対立はしていたさ。しかしそれは思想上の問題ではない。なぜなら東條の馬鹿には思想なんてものはない。私には少なからずあるけどな。」

この石原の回答に、「これならいける」と思ったのでしょう。
裁判長は、「最後の質問」と断りを入れたうえで、こう聞きました。
「今回の戦争で最も罪深い戦争犯罪者、それは誰だと思われますか?」

勿論、その意図は、石原の口から「ああ、それなら東條に決まっている」という言葉を導くものでした。
裁判長並びに裁判官全員がそう確信していたでしょう。
しかし、ここでも石原は逓信病院での事情聴取と同じように法廷にいる全員を驚愕させる答えを発したのです。

「ああ、それならアメリカ大統領トルーマンである!」
何という事でしょう。そこにいた全員が耳を疑いました。
石原はかまわず続けます。
「そうであろう。何の罪もない民間人を原爆で殺しまくり、20万人も殺してそれが正義だと言えるのか?トルーマンこそが最大の戦犯だ!」

そして、石原は戦争犯罪について聞かれたとき、「戦時中日本の軍隊は悪いことをしたという部分もあるだろう。しかし、戦場の興奮によって戦闘員を侵害することはおおいに有り得ること。 勿論忌むべき行為ではあるけれども、これらの偶発的な事件と計画的な大虐殺とは根本的に違う。

トルーマンの行為こそ戦犯第一級中の大一級の行為。今日戦勝国が如何にこれを抗弁しようとも、公正な第3者と後世の人類によって歴史的な審判を受けることは免れ得ない。一国の大統領ともあろう者がかかる野蛮行為をあえてして、しかも、少しも恥じるところがない。我々はこのような者を相手にして戦ったことは、何とも恥ずかしい。」

圧倒的な正論でした。
裁判長は裁判記録の破棄を命じ、そのまま裁判を終わらせました。
言論統制下にあったので、この石原の主張は日本のメディアで紹介されることは勿論ありませんでした。

裁判の終わりが告げられた瞬間に、裁判を傍聴していたA新聞の記者が石原のもとに駆け寄りました。
その眼には涙が浮かんでいたといいます。

記者が石原にこう伝えました。
「将軍、私は非常に嬉しかったです。日本が戦争に負けて、かつて偉そうにしていた指導者達が手のひらを返すように、オドオド、ペコペコして答弁する様子を見てきました。それは非常に悲しい光景でした。

ですが、今日の裁判の様子、将軍の発言を聞いて胸がすく思いがしました。ありがとうございます。」そう答えたといいます。
この記者の言うように、敗戦後の指導者の中には部下に責任を押し付け、自分の保身を図る者も少なくありませんでした。

その様子は日本の未来に不安をもたらせたでしょう。
記者の言葉が国民の心を代弁していると思われます。
そんな中で、日本人としてのプライドを貫いた石原のような人物もいたのです。

敗戦からちょうど4年後の8月15日、石原は病気により亡くなりました。
石原が旅立ったのが、終戦記念日だったというのも何か運命めいたものを感じてしまいます。
戦争の天才、異才、奇才と言われた石原らしい最後なのではないでしょうか。

最後に、そんな彼の天才ぶりを示したエピソードを紹介しましょう。
帝国陸軍で出世する確実な方法としては、陸軍大学校で優秀な成績を収めるということが大事でした。

だから陸大の入試競争が激化していました。
部下が陸大に合格すれば、その上司も評価されたので、軍内では上司たちが優秀な部下を選んで陸大入試にチャレンジさせるという風潮があったのです。

石原莞爾もまた上司にすすめられて陸大を受験した一人でした。
幼少期から特に学科では抜群の成績で、「天才」と言われていました。
彼は陸軍士官学校卒業後に宮城の連隊に勤務し、兵隊と共に朝から晩まで訓練に明け暮れる日々を送っていました。

そんなとき、上司の連隊長から、「わが連隊からも陸大合格者を出せ」とのお達しで、石原本人は消極的ながら、陸大入試に兆戦したところ余裕で合格してしまったのです。

陸大入試は初審と再審の二段階で選抜され、初審はいわゆる筆記試験で、石原は早々と答案を書き終えて退席し、試験会場のあった東京に駐屯する陸軍部隊の訓練を見学していたというのです。

陸大入試は浪人組も多く輩出するほど厳しかったのですが、石原莞爾が特別なだけだったようです。
ちなみに、東條英機は陸大入試に3回兆戦しており、2回連続で不合格となり、3度目で陸大に合格しています。

帝国陸軍で有名な将軍には結構浪人組も多く、それだけ難関だったようで、合格率はなんと約1割だったといわれています。
部下が陸大入試を決意すると、その上司の中には、勉強時間を確保できるように、敢えて自由時間の多い部署に転属させる例もあったとか。

東條英機は、父が陸軍大学校の1期生で、かつ主席と秀才の軍人だったことから、父を模擬面接官にして、厳しい試問と回答の訓練を重ねたらしい。

初審を突破した将校に課される再審は、陸大教官による面接試験で、学力の応用が試されるのです。
石原は機関銃の運用方法について試問され、黒板に、機関銃を装備した飛行機を図に描き、酔っ払いが小便をするように射撃しますと回答したのです。

それまで偵察程度の機能しかなかった飛行機に、その後機関銃を装備したことで飛行機の戦闘能力が画期的に向上したのは、まさに彼の提言が発端だったのです。
戦争の天才と言われた男、石原莞爾はやはりただ者ではなかったようです。

石原は、敗戦後全国を遊説しました。
将来を悲観する人々に、こう語りかけました。「みなさん、敗戦は神意なり! 負けてよかった。勝った国は今後益々軍備増強の躍進をするであろうが、日本は国防費が不要になるからこれを内政に振り向ける。敗れた日本が世界史の先頭に立つ日がくるのですよ。」会場ではすすり泣く声が聞こえたといいます。

まさに戦後日本の奇跡的復興を見据えたような石原の演説ではないでしょうか。
敗戦から4年、石原はマッカーサーに宛てて、「新日本の進路」と題した提言を書き送りました。
「“最終戦争“が東亜と欧米との両国家群の間に行われるであろうという予想した見解は甚しい自惚れであり、事実上明らかに誤りであったことを認める。」

後に、石原と若い頃から親交のあった今村均陸軍大将(2年10月法話分参照)は、こう述べています。
「満州事変における石原の功績は認める。ただし、軍紀を乱した責任は追及されなくてはならない。彼を軍令系統から外し、研究部門に充てればよかった。そうすれば、彼の才能は生きるし、下剋上の風潮も広がらなかった。これこそが、石原の才能を開花させ、後の日本の歴史すら変え得る唯一の方法だったようにおもいます。」

そんな石原莞爾が今の日本を見たらどう思うでしょうか。
今、与党自民党は国民をないがしろにして総理、総裁選に無我夢中です。
誰が選ばれようと日本が良くなるような気がしません。
今求められるのは石原莞爾のような政治家かもしれません。

合掌

曹洞宗正木山西光寺