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法話

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法話--平成19年9月--

因縁(その6)-- 己れに随い行くのは善悪業等のみ --

「無常たのみ難し。
知らず露命(ろめい)いかなる道の草にか落ちん、身すでに私に非(あら)ず、命は光陰に移されて暫くも停め難し。
紅顔いずくへか去りにし、尋ねんとするに蹤跡(しょうせき)なし。
つらつら観ずるところに、往事の再び逢うべからざる多し。
無常忽(たちま)ちに至るときは、国王、大臣、親じつ、従僕、妻子、珍宝たすくるなし。
ただ独り黄泉に赴くのみなり。
己れに随い行くは、ただこれ善悪業等のみなり。」

この第三節では主に無常観が説かれています。
そして結論として、その無常の流れの中で己が積み重ねた"業"のみが来世に随(つ)いていくという"因縁"が示されています。
言葉の意味としては比較的分かり易い内容だと思いますが、大切なことは言葉の解釈ではなくその真意を信ずるところにあるのです。

ご承知のように、仏教の三大眼目である三法印の第一義が「諸行無常」です。
宇宙のありとあらゆるすべての"もの"は一刻一刻、刹那ごとに生滅変化を続けているという真理の"法"を示したものです。
本節では道元禅師のその無常観が如実に示されていると言えるでしょう。

「無常たのみ難し」
人生は無常なものであり、まったく頼みの当てにはならないということです。
「無常」に対しては、人はどうしようもできないということです。

「知らず露命いかなる道の草にか落ちん」
人の命というものは実にはかないものです。
今元気でも明日も元気だという保証はどこにもありません。
それはちょうど道ばたの草の葉先に玉状となって止まっている露の状態によく似ています。

いつ何時、その露の命はぽろっとこぼれ落ち消え去るかもしれないのです。
われわれの命というものは丁度そのようにまことに頼りない不安定で保証のないものなのです。

「あすありと思う心のあだ桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」という古歌がありますが、明日どころか、一時間先、イヤ一分一秒先がわからないのが人生です。
まさに一寸先は闇なのです。

「身すでに私に非ず」
「身」とは「体」のことです。
「私に非ず」とは「自分のものではない」ということです。
ふつう自分の髪の毛一本から足の爪の垢まで自分の"もの"だと思っていますね。
だれでも自分の目、鼻、耳、口から心臓、腎臓、肝臓などの内臓から全て完全に自分のものだと思い込んでいるのが当たり前です。

しかし果たしてそうでしょうか。
自分のものであれば自分が自由にできるはずです。
ところが、髪の毛一本すらわれわれは自由にできません。
若い時は全く意識すらしていなかったそのゆたかな髪もやがて加齢とともに薄くなったり白くなったりしてきます。

哀愁のもと、育毛剤や養毛剤を必死に使ってみても遅かれ早かれ結果は同じことです。
抜け出す髪の毛一本すらわれわれはコントロールできないのが現実なのです。
一本の毛すらコントロールできないものが五臓六腑などコントロールできる筈もないのです。

完全に自分のものだと思い込んでいるこの"身"は実は自分の自由になるものではないというのが「身すでに私に非ず」ということです。
「すでに」とは「もともと」というほどの意味です。

お彼岸の今日、折しもお参りに見えたある方のお話です。
数年ほど前脳梗塞を患い、大手術の末九死に一生を得たそうですが、視力が大変落ちてしまい車の運転も出来なくなってしまったそうです。

そのことから大変落ち込んでしまい鬱病になってしまったそうです。
ようやく立ち直り今日お墓参りに来られたとのことでした。
自分の体でありながら自分の体でないことを悟ったそうです。

「命は光陰に移されて暫くも停め難し」
「光陰」とは「時間」のことです。命と時間は一体のものです。
一瞬たりとも止まってはいません。

「紅顔いずくへか去りにし、尋ねんとするに蹤跡なし」
少年時代の瑞々しいあの紅顔はいつの間にか何処かへ消え失せてしまいました。
何処へいってしまったのかその形跡すらどこにもみあたりません。
今このしわくちゃの老顔、重い足腰、記憶力、気力の低下という現実にさらされて"無常の理(ことわり)"を実感します。

「つらつら観ずるところに、往事の再び逢うべからざる多し」 ひとたび過ぎ去った時間は絶対に二度と再び戻ってはきません。
宇宙に存在する一切の"もの"は瞬時に流れているのです。
例え外見は同じように見えてもその実体は現象でありとどまることはありません。
諸行無常なのです。

「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にはあらず。淀みに浮かぶうたかた(泡)は、かつ消えかつ結びて、久しくとどまる例(ためし)なし」(方丈記)

きのうの一日も今日の一日も、今の一刹那も次の一刹那もなんら変わることのないもののように思えても、昨日の一日は昨日の一日であり、今日の一日は今日の一日であり未来永劫再び戻ってくることはあり得ないのです。
これを「一期一会」と言います。
このように、「諸行」は永遠に流れ続けてやむことのない「時」の流れの上に乗っているのです。

「無常忽ちに至るときは、国王、大臣、親じつ、従僕、妻子、珍宝たすくるなし」
ひとたび無常の風に誘われたら、例え国王であれ、大臣であれ、親族であれ、友人であれ、使用人であれ、妻子であれ、お金や財産であれ、それらによって無常の風の流れを差し止めることはできないのです。

つまり死ぬ時がきたら、例えどんな威力であれ、権力であれ、忠義であれ、愛情であれ、金銀財宝であれ、それらを以て延命に役立てることなどできないということです。
例えどこかの国の将軍様といえども"その時"がきたならばどんな権力や財力も全く役に立たないのです。
命をコントロールできるものなど絶対に無いのです。

「ただ独り黄泉に赴くのみなり」
結局はただ独りであの世に行くだけなのです。
どんな権力者であろうとどんな金持ちであろうと、所詮死ぬときは独りであるのです。

「己れに随い行くは、ただこれ善悪業等のみなり」
しかし、あの世の先まで随いていくものがあります。
それは只一つ、自分が生前に積み重ねた善と悪の業(ごう)なのです。
人は死ぬことで肉体を失いますが「業」だけは絶対に失いません。
この「業」を因とし縁として「来世」に赴くのです。

今の世の中、どんどん悪くなっているような気がしてなりません。
毎日のニュースをみてください。悪いニュースばかりです。
この業の道理を信じない人がどんどん増えているなによりの証拠と言えるでしょう。

「業」を信じない人は来世を信じません。来世を信じない人は自分を大切にしません。
自分を大切にしない人が悪事を働くのです。
来世は厳然として有るのです。お釈迦さまのお悟りがそれを証明しています。

業を信じ来世を信じてこそ人は自分を大切にできるのです。
"諸縁吉祥"はまず業の道理を信ずる人にこそ訪れることを知るべきです。

合掌

曹洞宗正木山西光寺