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法話

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法話--令和3年4月--

太平洋戦争の真実 その11 ―開戦の真実 ―

戦後の日本人の多くが、日本が太平洋戦争を起こし、アジア諸国を侵略し迷惑をかけた戦犯国だと認識しているのではないでしょうか。
それがトラウマとなって多くの日本人が自虐的歴史観を持ち続けています。

実は私自身がそうでした。
察するに、戦後教育のなかで情報は学校教育とマスコミからの一方的なものに限られ、その偏った情報のなかで徐々に日本は戦犯国だという認識が形成されていったのではないでしょうか。

しかし、ネット社会となった今日、さまざまな情報のなかから見えてくることは、必ずしも日本が一方的に悪かったとは言えない事実があるのです。
隠された情報や誤解も多く、これまでの歴史認識は大きく変わろうとしています。

ようやく偏りのない真実の歴史を知り得る環境がもたらされたのかもしれません。
歴史の真実を見極め、謙虚に反省すべきは反省し、間違った認識は正していくことで日本人は失った誇りと自信を取り戻せるのではないでしょうか。

戦後76年が経ち、太平洋戦争は人々の記憶からどんどんフェードアウトし、戦争を知らない世代がメインとなりました。
それも仕方のないことですが、同じ不幸を繰り返さないためにも歴史の真実に向き合い学ぶ必要があると思います。

310万人もの日本人が犠牲になったあの戦争は一体何だったのか、なぜ起きたのか。
今後また戦争が起こらないとは言い切れません。
これからの戦争は勝者も敗者もない全員が悲惨な敗者になるのです。

「地球よりも重い」人の命がまるで虫けらのように扱われる異常な世界。
殺人に対しての罪悪感、憐憫の心さえ奪いさってしまう異常な世界。
個人的には何の恨みもない人間同士が殺し合うというまさに不条理な世界、それが戦争です。

しかし、どんな人でも一旦兵士として戦場に臨めば、そこでは戦うしかありません。
戦場では一切の良心や感情を捨てて殺人鬼になるしかありません。
兵士は皆、国家のための正義と殺人という矛盾に葛藤し悩み苦しむのです。

選択肢のない抗うことのできない運命に流され、国家のために命を賭して戦い散ったあまた将兵の殉国の名誉が称えられないかぎり彼らは報われません。
日本人が自虐的観念から立ち直らないかぎり英霊は浮かばれません。

あまたの若者たちのかけがえのない命の犠牲の代償に今日の日本の繁栄と平和があることを今一度噛み締める必要があります。
日本がかつて盟主と称えられた時代の名誉と自信を取り戻すためにも歴史の真実を真摯に学び自虐的史観から立ち直ることが必要です。

ここで念のため申し上げておきたいことは、私は決して右でも左でもありません。
仏教の信条と同じまさに「中道」です。
中道にこそ真実があるという、その立ち位置からが私の信条と見解です。

そもそも太平洋戦争は本当に日本が一方的に悪かったのでしょうか。
日米開戦は日本が宣戦布告もなしに真珠湾を奇襲攻撃したことで始まったと教えられてきましたが、ほんとうにそうだったのでしょうか。

第二次世界大戦当時、アメリカ下院議員だったハミルトン・フィッシュ氏の「太平洋戦争の真実」の証言を紹介します。
彼の名前が日本人にほとんど知られていないのは彼の証言がアメリカにとって不都合だったからです。

そのため彼は、アメリカでは「修正主義者」のレッテルを張られ、日本ではマスコミや大学ですら、アメリカに気遣って絶対に紹介しなかったのです。
戦後日本は一貫してアメリカに忖度し真実を隠し続けてきたのです。

では一体フィッシュはどんな証言をしたのでしょうか。
今回は、日本がなぜ戦争へと突き進んでいったのか、その理由をフィッシュの貴重な証言から紐解いてみたいと思います。

真珠湾攻撃の翌日、ルーズベルト大統領は、日本に対して宣戦布告を求める議会演説「恥辱の日」演説を行いました。
ルーズベルトの演説に続いてそれを容認する演説を行ったのが下院議員のフィッシュでした。

戦争に反対するアメリカ国民も、フィッシュの演説を聞き、日本に対する戦意の炎を燃やしたのです。
ところが戦後、フィッシュは自分の演説を深く恥じることになりました。

なぜなら、ルーズベルト政権の対日交渉の詳細が次々と明らかになってきたからです。
特にフィッシュが問題にしたのは、ルーズベルトが「ハル・ノート」の存在を議会に隠していたことでした。

ルーズベルトは、「アメリカが誠意をもって対日交渉を続けているさなかに、日本は卑怯にも真珠湾攻撃をした」と、議会や国民に説明していました。
しかし、それは偽りだったのです。

フィッシュは自著でこう振り返っています。
「私たちは、日本が和平交渉の真っ最中にわが国を攻撃したものだと思い込んでいた。
しかし、国務省でハル国務長官から日本の野村大使に最後通牒が手交されたのは、1941年11月26日の午後でした。
(これは日本の攻撃は12月8日だったので、12日も前のことになります)

ハル国務長官の最後通牒のことは、ワシントンの議員誰一人としてそのことを知らなかった。
民主党の議員も共和党の議員もそれを知らされていない

フィッシュは、「ハル・ノート」は議会の承認を得ない対日最後通牒であると言い切っています。
それは、議会だけに開戦権限を認める合衆国憲法の精神にも背いた外交文書だったのです。

フィッシュは、ルーズベルトを軽蔑するとともに、自分がその嘘に乗せられて対日宣戦布告を容認したことを強く恥じました。

戦後の研究で、日本の天皇も指導者も対米戦争を望んでいなかったことまでが明らかになると、彼の怒りは頂点に達しました。
彼は別の自著の中で次のように述べています。

「私はルーズベルトを許すことができない。 彼はアメリカ国民を欺き、全く不必要な日本との戦争にアメリカを導いた。 日本の指導者が開戦の決断をすることになった最後通牒ハル・ノートはルーズベルトが真珠湾攻撃を「恥ずべき行いの日」と呼んだことにちなみ、「恥ずべき最後通牒」と呼ぶのが適切と思われる。

天皇は名誉と平和を重んじる人物であり、側近の攻撃的な軍国主義者を制圧するために出来る限りのことを行っていた。 日本はフィリピンおよびその他のいかなる米国の領土に対しても、野心を有していなかった。

しかしながら、ひとつの国家として、日本は、コメおよび石油の購入を平和的に保証されたならばどのような条件にでも署名し、南方に対するいかなる侵略も停止したであろう。

ただ、自由貿易を認めるだけでよかったのだ。(中略)日本が近隣諸国からコメ、石油、ゴム、錫その他の商品を購入することさえもできないくらいの制限を米国によって課せられなければならないのか。こんな理不尽な話はあり得ない。

天皇および近衛首相は、平和を維持するために信じられないほどの譲歩をするつもりでいたのである。 非常に平和愛好者である首相の近衛公爵は、ルーズベルトとの会談を繰り返し要望していた。

在日米国大使であったジョセフ・グレーは、日本がどれだけ米国と平和的関係を保ちたいと希望していたか承知しており、首脳会談を強く要請した。

日本は米国との開戦を避けるためならば何でもする用意があったであろう。 しかし、ルーズベルトはすでに対日戦、対独戦を行うことを決意していた、というだけの理由で日本首相との話し合いを拒否した。

日本との悲惨な戦争は不必要であった。 これは共産主義の脅威をより恐れていた日米両国にとって悲劇的であった。 我々は、戦争から何か得るところがなかったばかりか、友好的だった中国を共産主義者の手に奪われることとなった。

(中略)日本人は、高度な忠誠心、愛国心に満ちた、非常に感受性の強い、誇り高き、かつ勇敢な民族である。このような民族に『恥ずべき最後通牒ハル・ノート』を突き付ければ、必ず戦争になるとルーズベルトは確信していた。

私はルーズベルトを許すことができない。 この大戦は米国に30万人の死亡者と70万人の負傷者、そして五千億ドルの支出を米国にもたらした。 日本には軍人、民間人合わせて300万人以上の死亡者をもたらした。 日本の物的、精神的被害は計り知れない。その責任はルーズベルトが負っているのだ。」

このように、フィッシュは戦争で命を落としたアメリカ人の犠牲を悼むだけでなく、日本人に対しても哀悼の念を表しているのです。

わが国では、今なお第二次世界大戦の責任を我が国とその指導部にのみ求めようとする見解が根強く残っています。
戦後76年となる今日、「今さら」などとは思わずに「太平洋戦争の真実」を見極める必要があるのではないでしょうか。

合掌

曹洞宗正木山西光寺