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法話

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法話--平成30年11月--

日本人の宗教観 その2 ― 廃仏毀釈 ―

明治元年、明治新政府は、王政復古による祭政一致の立場から古来以来の神仏習合を禁じて神道を国教とする方針を打ち出しました。「神仏分離令」の布告です。

革命政権である明治政府は、天皇を支柱とする国家を目指したのです。
天皇の絶対性の存在意義を皇室の宗廟たる伊勢神宮を最高にした神道に求めたのです。
そのために新政府は国教を仏教から国家神道に変えたのです。

太古より江戸時代まで、仏教と神道は神仏習合・神仏混淆でした。
どちらが上かと言えば仏教(寺)であり、神社の中にお寺がありました。
大きな神社の名前も例えば、鎌倉八幡は「鎌倉八幡宮寺」であり、京都の石清水八幡も「石清水八幡宮寺」と“宮寺”でした。

この意味するところは神社の中に寺院が勧請(かんじょう)されていたということです。
「勧請」とは、「神仏などの来臨を勧め請い願うこと」であり、霊を分霊して他の場所に移して祀ることを意味します。

神様の本来の境地、すなわち「本地」は仏様であり、人びとを救うために仏様が神様に姿を変えているという考え方が本地垂迹説です。
ですから、神社が仏さまを勧請されていたので神社は「宮寺」を名乗ったのです。

例えば、伊勢神宮の本地仏は廬舎那仏、熱田は大日如来、春日は各殿があり、釈迦、弥勒、十一面観世音、厳島は大日如来と観世音、出雲は至勢菩薩等々・・・ 全ての神社には本地としての仏様が祀られていたのです。それが神仏習合の実態なのです。

これは、神様が仏様を守る立場であり、神様は従属の立場であるということです。
本地垂迹(ほんちすいじゃく)は、神仏が同等の立場としてではなかったのです。
本地垂迹に基づいて、たくさんの神様は仏様と関連付けられました。

八幡様は神社ですが、菩薩と結びつけられたのが八幡大菩薩です。
〇〇権現と呼ばれる名称もそうです。
権現とは、日本の神々を仏や菩薩が仮の姿で現れたものとする神号なのです。

「権現」の「権」という文字は「臨時の」「仮の」という意味です。
たとえば人の場合「権大納言」だとか、僧侶であれば「権大僧正」とか「権大教師」とかの呼称がそれにあたります。

仏が「仮に」神の形を取って「現れた」のが「権現」であり、これは、日本の神々を仏・菩薩の権(仮り)の現れとして位置づけ、神は仏を守護する役割になっていたということです。例えば熊野権現や山王権現、白山権現などがそうです。

権現を祀るところを権社といい、神様を祀るところを実社といいます。
ちなみに、徳川家康の東照大権現や、藤原鎌足の談山権現は神仏とは異なり、家康は御水尾天皇から、鎌足は醍醐天皇から賜った諡号(しごう)です。

本地垂迹説は、日本の神々を仏・菩薩の権(かり)の現れとして位置づけ、仏が本体であり、神は仏を守護する役割にされています。
このような神仏習合は、明治維新政府が天皇を支柱にする政策からよろしくありません。

天照大神―神武天皇―大和天皇(古事記、日本書紀記述)からの明治天皇の存立は現人神であることが絶対必要だと考えました。
この考え方は江戸時代の本居宣長や平田篤胤などの国学者が提唱しており、この思想に政府が乗ったのです。

そこで、維新政府は仏教の神道より上位を打ち壊すため、神社内の仏教的な要素を取り除くことにしたのです。
それが「神仏分離令」(1868年)です。
しかし、この布告は「神仏分離」に止まらず「廃仏毀釈運動」に発展してしまいます。

神仏分離令は、仏教排斥を意図したものではなかったのですが、江戸時代の厳しい寺請制度で、汚職の温床となっていた寺院に反感を持っていた庶民や、神道の復古を目指した一部の神職が中心になって全国各地で仏教排斥が始まったのです。

寺請制度とは、江戸時代にキリスト教を排除する目的で、すべての人は寺院の檀家となり、寺院から寺請証文を受け取ることを強要した制度で汚職などが蔓延したのです。
現在ある檀家制度は当時の寺請制度に始まったものです。

寺の管理下にあった神社は、これまでの寺へのうっ憤から過激な行動に出て、仏堂、仏像、仏具等を焼き捨てる神社が出てきました。
日吉神社、石清水八幡宮、鶴岡八幡宮、金毘羅大権現等です。
更に影響は各地で廃寺が進み、特に鹿児島、水戸、佐渡、富山、信州などが激しかったようです。

これは当時の国学者や神道家の影響もあるのですが、寺院が幕府の宗教制度の一翼を担った中で、その反発が出てきたものとも言えます。
壊滅的な被害にあった有名な寺としては奈良の興福寺です。
中世の頃は最大の荘園を持ち、東大寺よりも大きく、伽藍、堂舎の規模は日本最大級でした。金堂(本堂)が二つあったのは興福寺だけです。

仏像、仏具の類も他を圧する量と質と言われ文化財の宝庫でした。
しかし、伽藍は五重塔以外はほとんどすべて壊されてしまいました。
その五重塔も焼かれるところでしたが、類焼を恐れた住民の反対でそのまま残されたそうです。よかったですね。今では国宝ですよ。

興福寺はその後復興しましたが、今日の規模に昔の面影はありません。
もし廃仏毀釈運動がなかったら、どれほどの国宝が現存していたことでしょう。

薩摩藩では廃仏毀釈が徹底され、1616寺とも言われる寺院が廃寺となり、僧侶は還俗し、兵士になったものも多く、没収された財産や人員は、軍を強化するために回されたといわれます。

美濃国では、苗木藩の寺院、仏像、仏壇はすべて破壊され、藩主の菩提寺も廃寺となりました。
地方の神官や国学者が扇動し、寺請制度に反感を持った民衆がこれに加わり、歴史的、文化的に価値のある多くの文物が失われたのです。

仏教伝来から既に1400年近く経っていた明治維新といわれるこの時点に於いて、仏教という宗教及びその影響を受けた文化的、精神的諸要素は、既にこの美しい日本の風土と文化を創り上げ、人びとの心に浸み込んでいたのです。

その意味では、薩長新政権が起こした「廃仏毀釈」は、歴史上例をみない醜い日本文化の破壊活動であったのです。
これによって、日本全国で奈良朝以来のおびただしい数の貴重な仏像、仏具、寺院が破壊されたのです。

明治政府は、その後「神仏分離」は廃仏ではないと布告しましたが、廃仏毀釈運動による被害は地域によっては凄まじいものでした。
まさに中国の文化大革命、イスラム原理主義勢力タリバーンやイスラム国による破壊活動と似ています。

ところで、この「神仏分離」は、天皇家にはどのような影響を及ぼしたのでしょうか。
内裏には歴代天皇、皇后の位牌が納められた仏堂がありました。
祖霊神を祀る神殿もあり、天皇家は神仏併せて信仰されていたのです。
しかし、「神仏分離」でお位牌は京都の泉湧寺に預けられました。

泉湧寺には歴代天皇の陵墓がありますが、天皇家は仏教の信仰をお止めになり、信仰は伊勢神宮の神様だけになりました。
それまで仏式だった天皇家の葬儀は明治天皇以来神式となりました。
戦後国家神道はなくなりましたが天皇家はそのまま神道です。

しかし、1400年も続いた神仏習合の文化はそう簡単になくなることはありませんでした。
寺院と神社は物理的には分離されましたが、日本の家には今でもしっかり神棚と仏壇が祀られています。
結論的には、日本人の宗教観の原点はすなわち「神仏習合」にあるといえるでしょう。

合掌

曹洞宗正木山西光寺