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法話

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法話--平成20年3月--

因縁(その12)-- 公案「百丈野狐」【前編】--

境内の彼岸桜ちょうど今お彼岸で、境内では彼岸桜が満開です。
おもわず写真に撮りました。
いよいよ春本番です。
春は希望に満ちていていいですね。

しかし、チベットではこのところ大変な状況が続いています。
人民による暴動ばかりが伝わってきますが、その原因ははっきりしません。
が、ただ一つ言えることは、いつの時代でもどこでも正義は人民にこそあるということです。

何の原因もなく何百何千の人々が暴動を起こすなどということはありえません。
そこにはそれ相当の原因があってのことです。恐らく追い詰められた人民の不満が爆発したのでしょう。

チベットはもともと独特の仏教文化の穏やかな独立国でした。
それが、1949に中国に突然侵略されて以来、国家としての独自性を奪われたのです。強引な統制により自然環境さえ破壊され続けているというのです。

チベット人民の堪忍袋は限界を超えたのでしょう。
暴動は中国政府の不条理に対する抵抗なのです。
チベット人民にとってダライ・ラマ法王は宗教・文化・民族の象徴であり誇りであるのです。

その象徴や人権や文化を認めようとしない国はとても民主主義国家とは言えません。
中国は〝共和国〞の筈です。
君主でも独裁でもなく、主権が人民にあるというのが"共和国"の意味です。
でもそう言えば北朝鮮も確か"共和国"でした。
中国も国の看板が偽装だったのでしょうか。偽装は犯罪です。

どうか北朝鮮と同じような犯罪国家にはならないでください。
中国自身かつて日本に占領され大変辛い経験をした国の筈です。
今世界が注目をしています。
中国政府は今すぐにでもダライ・ラマ法王と会って謙虚に話し合うべきです。
オリンピックどころではありません。

あと、日本の平和ボケのニュースコメンテーターなる者に一言。
「政治とスポーツとを一緒にして欲しくない」というコメントをこのところまま耳にしますが、それはまったくの現実知らずの「他人事の言い方」です。
命や生活を脅かされている人たちにとって「何がスポーツだ」と言いたいのです。

どうか平和ぼけした馬鹿な意見やコメントを言わないでください。
同じ日本人として恥ずかしい限りです。
以上本論に入る前に一僧侶として一言言わせていただきました。

さて、当山ホームページもこの3月でまる3年を迎えることができました。
2万件以上のアクセスをいただきました。感謝申し上げますとともに、これからもよろしくお願い致します。
三周年の節目ということで特に今回は公案無門関第二則「百丈野狐」(ひゃくじょうやこ)をとりあげました。(前回からの「こころ」は先に延ばさせていただきます。)

さて、「因縁シリーズ」の中で「因果」を論じるときやはりこの公案を避けて通ることはできないと思いながらも実は少々躊躇していました。
それはこの公案の本則が長いからです。
長いということは説明が大変だという実にイイカゲンな理由からです。(これは言う必要無いですかね)

というわけで今回から前・中・後三回に分けて公案「百丈野狐」をお届けいたします。
特に公案に興味ある方は最後まで看ていただければうれしい次第です。
祖録の公案は原則として本則(公案の本題)だけは全部暗記することが建前になっていますので、それが案外大変なのです。

この公案は第二則ですから、第一則「趙州狗子」の「無字」を許されてからの最初の公案になります。
「無字」を透るだけでも個人差にもよりますが、何ヶ月から何年もかかるのです。
それだけに「無字」を透ってほっとして感慨にふけっているときに、次のこの長い本則は正直面倒だと思います。
実際この本則は「無門関」の中で最長のものです。

本則の本文は長いし、内容も作り話のようなウソみたいな話で、公案の狙いもはっきりわからないし、はじめはモティベーションが上がりませんでした。
そんなことも有ってか、この公案にも数ケ月掛かりました。
そんな印象がこの公案にはあります。

しかし今、改めてこの公案を看返してみると、無門禅師が「無門関」の第二則にこの公案を持ってきた理由がわかるような気がします。
それは第一則での「無字」の検証になっていると思えるからです。

どういうことかといいますと、第一則の「無字」の見性(けんしょう)を更に確かなものにする必要があるということです。
見性が二次元留まりであってはダメなのです。
三次元の見性でなければ本物ではありません。
難しい言い方かもしれません。別な言い方をしてみましょう。

「色即是空」だけの理解では二次元の理解でしかありません。
その翻りの「空即是色」の理解があってこそ「色即是空」が真に理解されるのです。
二次元の理解を「平面」とすると、三次元の理解で「立体」になるのです。
"立体"が三法印の姿だからです。
この持論我ながら言い得て妙とでも申しましょうか。(うぬぼれですかね)

つまり「無字」の見性の程度がこの第二則で試されるということです。
それだけにかなり手強いものになっているのです。
前置きが随分長くなりましたが、ではこの公案の主旨に入りましょうか。
仏さまは果たして因果の支配は受けるのか、あるいは因果の支配を受けないのか、そのどちらなのかというのがこの公案の主題です。

登場人物についても紹介しておきましょう。
百丈とは百丈懐海(ひゃくじょうえかい)禅師のことで、達磨さまから九代目の人で馬祖道一の弟子です。南泉普願とは兄弟弟子になります。
黄檗(おうばく)は百丈の弟子で黄檗希運のことで臨済義玄の師匠になられるお方です。

百丈禅師と言えば禅宗の憲法とも言える「百丈清規」を定めた人でもあり、「一日作さざれば一日食わず」という提唱でも有名です。
なんとその時代に九十四歳まで生きられたという大古仏です。
以上のことを念頭に置いて本則を看ていきましょう。

本則
百丈和尚が説法するときに、いつでも一人の老人が他の僧たちと一緒に法を聞くためにその場にいた。
僧たちがその場を去ると、その老人もまたその場を去った。
ところがある日、その老人だけがその場に残った。
そこで、百丈がその老人に、「お前さんいったい誰なのか」と尋ねた。
その老人は答えて言った。

「はい、実は私は人間ではありません。ずっと昔、過去仏である迦葉仏(かしょうぶつ)の時代に私はこの山で住職をしておりました。
あるとき修行者が私に、一体悟りを得た人は因果の鎖の世界に落ちるのでしょうかと尋ねたので、私は因果に落ちないと答えました。
そのため私は、五百回も野狐に生まれかわってしまいました。
今どうかお願いしたいのは、私に代わって一転語(いってんご)を答えていただき、私を野狐の身から解放していただきたいのです」と。
(一転語とは、迷いを転じて悟りに導く一句の法語)

そこで、その老人が改めて百丈に問いた。
「悟った人は因果の支配に落ちるでしょうか」と。
百丈は「誰人も因果の支配を消し昧(くら)ますことはできない」と答えた。
その一転語によって老人はたちまち悟りを開いた。そして礼拝して言った。
「私はおかげでやっと野狐の身を脱することができました。
更に百丈禅師様にお願いがあります。どうか私の葬儀を僧侶の作法で執り行ってください」と。

それを受けて百丈は一山の綱紀を取り扱う維那(いのう)という役僧をよび、白槌(びゃくつい)の合図をして僧たちに告げた。
「昼食後、亡僧のための葬式を行う」と。
一山の僧たちはいろいろと取り沙汰して言い合った。

「われわれは皆健康であるし、涅槃堂(病僧が養生するための施設)にも別に誰も居ないのにこの知らせは何なのか?」と言って不思議がった。
昼食の後、百丈は一連の僧を連れて裏山にのぼり、岩の下から杖で一匹の狐の死骸を引き出して、亡僧の儀礼で火葬に付した。

その日の夕方、百丈は法座台上に登ってこの話を僧たちに聞かせた。
すると弟子の黄檗が言った。
「その老人は錯(あやま)って一転語を答えたばかりに、五百回も野狐の身に生まれかわったとのことですが、もし、その一転語が間違っていなかったとしたら、いったい何に生まれかわる定めだったでしょうか」と。

すると百丈は、「こっちへ来なさい、お前のために言って聞かせよう」と言った。
それを受けて、黄檗は進み出るやいなや、百丈の横面に平手打ちをくらわせた。
それを百丈は大笑いし手を叩いて言った。
「赤鬚(あかひげ)の達磨はわしだけじゃと思っていたのに、ここにまたもう一人の赤鬚の達磨がおったわい」と。

以上が本則の内容ですが、この公案の狙いは、「不落因果」と「不昧因果」という言葉を通して「因果」の実体を知ることにあるのです。
「因果」というその本当のすがた、本質を知るのがこの公案の狙いなのです。
このことを忘れないでください。

そのための問題提起が「不落因果」「不昧因果」なのです。
「不落因果」とは因果に落ちないということであり、「不昧因果」とは因果をくらますことはできないということです。
まずあなた自身はどう思われるでしょうか?

仏様になったら因果の支配から免れると思いますか?それとも因果の支配を免れないと思いますか?この答えは"何"でしょう。(「どちら」ではなく「何」というのがヒント) ここに登場した一老人は昔「因果の支配から逃れられる」と答えたのですが、その答えが間違っていたためなんと五百回も野狐に生まれかわったというのです。

その悔いから彼は百丈禅師に正しい答えを求めたのです。
百丈は、「例え仏であろうが誰であろうが因果の支配から逃れることはできない」と答えたのです。
その答えが正しかったのでその老人はたちまち悟りを得て野狐の身から解放されたのです。

では「不落因果」と答えたその老人の答えは"なぜ"間違っていたのでしょう。
そして「不昧因果」と答えた百丈の答えは"なぜ"正しかったのでしょう。
この"なぜ"が正にこの公案の答えなのです。
この答えは次回にまわすとして、折角ですからヒントを言っておきましょう。

先にもちょっと触れましたが、「色即是空」は同時に「空即是色」であることが証明できてはじめて「色即是空」がほんとうに理解できたことになるということ。
さらに言えば、「不落」が「色」であり、「不昧」が「空」であるということ。
最高のヒントですよ。

合掌

曹洞宗正木山西光寺