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法話

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法話--平成31年3月--

日本人の宗教観 その6 ― お彼岸―

お彼岸中、ここ館山でも城山公園の桜(ソメイヨシノ)の開花が発表されました。
約400本のソメイヨシノが植栽されている同公園は今年も多くの花見客で賑わいそうです。いよいよ春のときめきを感じます。

また、桜とともに人々の心を穏やかにさせるのがこの時期のお彼岸です。
お彼岸といえば、お墓参りしたりして御先祖様に感謝と供養を手向ける日であるというイメージを持っている人も多いでしょう。
しかし、実はこの習慣は仏教国の中でも日本独特のものなのです。

そこで、お彼岸について改めて考えてみたいと思います。
「彼岸」とは「彼の岸」つまり向こう岸ということであり、それは浄土の世界、仏様の世界を指しています。
対して、こちら側を此の岸、此岸(しがん)と言い、迷いや煩悩の世界を意味します。

浄土の世界とか、仏の世界と言うと、多くの人は死後の世界、冥途の世界を連想しますが、それこそ大きな誤解です。
そもそも仏教の眼目を一言で言うならば、「悟りを開いて仏になること」です。

すなわち「成仏」こそ、仏教の究極の命題なのです。
悟りを開いた人を「覚者」と言い、同時に仏陀と言います。
ですから仏陀の第一号がすなわちお釈迦さまということになります。

そもそもお釈迦さまの教えからすれば、成仏は本来生前にするものです。
そのためにあまたの弟子達が命をかけて修行に精進し仏陀を目指したのです。
その仏陀になるための教えがすなわち仏教なのです。

ではそもそも覚者とは、一体何を悟った人のことでしょうか。
それは、ズバリ「般若の智慧」を悟った人のことです。
では、「般若」とは何でしょうか。

般若とは、サンスクリット語の「パーラ」の音訳であり、その漢訳語が「智慧」です。
智慧は知恵と違います。
知恵は人間が作り上げた知識の域を出ませんが、智慧は宇宙絶対の真理、法則のことです。
その法則に則っていないもの全てを煩悩と言います。

煩悩とは、人の勝手な都合や主観などを指します。
絶対の真理は絶対の正義です。
だから人はその正義の下で生きてこそ幸せになれると説くのが仏教です。

煩悩の全く存在しない世界を仏の世界、浄土の世界、涅槃の世界、そして「彼岸」といいます。
まさに仏教の目指すところこそ「彼岸」と言えるのです。
ですからお釈迦さまの教えは、まさにその「彼岸に渡る」ための教えなのです。

宇宙の真理の智慧をサンスクリット語で「パーニャ」といいます。
それが当て字になって「般若」になりました。
「彼岸」をサンスクリット語では「パーラー」と言い、その当て字が「波羅」であり、「至る」が「ミター」で、当て字が「蜜多」です。

すなわち「智慧の彼岸に至る経」が「般若波羅蜜多心経」なのです。
余談になりますが、般若といえば「般若の面」を連想する人が多いかもしれませんが、一説には、般若坊という僧侶が作ったところから名がついたといわれます。

また、源氏物語の葵の上が六条御息所の嫉妬心に悩まされ、その怨霊にとりつかれた時、般若経を読んで退治したことからその怨霊に対峙するための形相だとか、能面の世界では、「嫉妬や恨みのこもる女性」という意味で使われるようでが、本来の般若の意味からはかなり異なったものと言えるでしょう。

ちなみに般若心経の正式名は、「摩訶般若波羅蜜多心経」です。
「摩訶」は、摩訶不思議などと使われますが、語源は、サンスクリット語mahaの音写であり、「大いなる」「優れた」「人知を超えた素晴らしさ」などを意味します。

「心経」の「心」とは、「大般若経」600巻の精要という意味です。
「般若心経」の大元は600巻という膨大な大般若経であり、その中心の道理を僅か262文字に集約したのが即ち般若心経です。

大般若経は、西遊記で知られる玄奘三蔵がインドから中国へ伝えたものであり、その膨大な経典の中の「空」の教えを鳩摩羅什が「心経」に翻訳したものが般若心経です。
大宇宙の真理は「空」であるという、まさに真理と正義を説いたお経なのです。

般若心経は、日本で最も知られているお経ですが、聖徳太子が派遣した遣隋使である小野妹子が持ち帰ったといわれます。
日本には多くの宗派がありますが、特に真言宗、天台宗、臨済宗、曹洞宗などは重要な経典として位置づけています。

しかし、一部の宗派、日蓮宗や浄土宗、浄土真宗系は通読していません。
日蓮宗は、法華経が全てであるとして、法華経以外重視しません。
ですからお題目「南無妙法蓮華経」を繰り返します。

浄土思想を基本とする浄土宗、真宗の考えでは、成仏とは死んでからの極楽往生を意味します。
往生とは、死ぬことであり極楽浄土に生まれ変わることを意味します。
そのためには只々阿弥陀如来を念仏することでそれが叶うのです。

浄土思想からすれば、彼岸とはこの世ではなく来世の極楽浄土にあるのです。
ですから、この世よりもあの世、来世にこそ仏の世界だと信じます。
その教義からすると、この世とあの世を一体と考える般若心経の主旨には合いません。
ですから浄土系では般若心経はお唱えしないのです。

日本には多くの宗派がありますが、同じ仏教系でも一番特異性を感じるのが真宗でしょうか。
誤解を恐れずに譬えれば、キリスト教徒が死後神の元に召されるという考えに似ているように思います。

葬儀で神の元に召されたのであれば、改めて供養なるものは必要無いという考えです。
浄土真宗でも、死後阿弥陀仏の元に往生するのであれば、既に成仏している以上あえて追善の必要がないというふうに考えます。

お盆には御先祖様が帰ってくるという気持ちでお盆を迎えるのが一般的日本人だと思いますが、浄土真宗では、お盆のとき「ご先祖様が帰ってくる」とは決して言わないそうです。

それもそのはず、死者が極楽浄土に往けたのは阿弥陀様を信じたからこそであり、亡くなってから、功徳を死者に回向することは、阿弥陀さまの他力本願を疑うことになるからだそうです。

いずれにせよ、お彼岸の期間には、日本では宗派を問わず各寺院では、「彼岸会(ひがんえ)」の法要が行われます。この彼岸会は、平安時代の中頃に始まったとされています。

また、彼岸会法要は浄土教(浄土思想)の影響を強く受けられていると言われます。
浄土思想では、極楽浄土は西方はるか10万億土の彼方にあると考えられているため、太陽が真東から昇って真西に沈んで行くこの春分の日と秋分の日は、我々の世界である此岸と、仏様の世界である彼岸が、最も近くになる時期であると理解されるようになりました。

従って、この時期にご先祖様の供養を行えば、ご先祖様だけではなく、自分自身も極楽浄土(悟りの世界)に到達することができ、ご先祖様への思いも最も通じやくなるのではないかという思いが、お彼岸にはご先祖様の供養のためお墓参りをするという行事になったようです。

合掌

曹洞宗正木山西光寺