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法話

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法話--平成20年7月--

こころ(1)-- 仏教は心の教え --

またまた八王子で無差別殺人事件が起こりました。
つい一月ほど前秋葉原で七人が殺害されるという大変な通り魔殺人事件があったばかりです。
このような通り魔殺傷事件は今年に入ってすでに八件目になるとか。
その理由の多くが、世の中がイヤになって、誰でもいいから殺したかったというまったく身勝手なものです。

子供による凶悪事件もどんどん増えています。
中学生の女子が寝ていた父親を刺殺してしまった事件がありました。
中学生男子によるバスジャック事件や無職少年が高校生を殴って殺してしまった事件。
無職少年による強盗殺人事件等々。今の子供の心に何が起こっているのでしょう。

確かなことは多発する通り魔事件も子供による凶悪事件もみんな「心」がおかしくなってしまった結果です。
昔は通り魔事件などありませんでした。
子供が親を殺すとかバスジャックするとかそのような事件もまずありませんでした。

人間はすべて心に従って行動します。ですから良いことも悪いこともすべて心で決まるのです。
犯罪率が高まり理解できないおかしな犯罪がどんどん増えています。
人の心がどんどんおかしくなってきているということです。
だとしたら心を正すしかないのです。

しかし人にとって心ほど厄介なものはないのです。
「心こそ、心まよわす心なれ。心に心、心ゆるすな。」(沢庵禅師)

持論ですが、人は誰でも幸福になるためにこの世に生まれてきたのです。
前世からの因縁によって人として幸福になる資格を得たから生まれて来れたのです。
初めから不幸になるために生まれてくる人なんていないのです。
しかし幸も不幸も生まれてからの「心」で決まってくるのです。
だから仏教は心を最大のテーマにしているのです。

人は心があるから夢も希望もあるのです。
しかし夢と希望があるということは同時にその裏側には苦悩と絶望もあるということです。
希望も絶望もそれらはまさに表裏一体のものです。
希望が表に出れば幸福となり、絶望が表に出れば不幸となるのです。

それを決めるのはすべて心の中の煩悩です。
煩悩というと「良からぬもの」と捉えている人があるかと思いますが、それは誤解です。
煩悩とは悪い意味ではありません。煩悩とは即ち心それ自体のことです。
だから煩悩を否定することは心を否定することになってしまうのです。

仏教は心をテーマにしていると言いましたが、それは即ち煩悩をテーマにしているのと同意です。
「煩悩即菩提」と言いますね。その意味は煩悩と悟りは表裏一体だということです。
つまり人は煩悩の実体を理解し真実に従って生きることが幸福への道だということです。
ですから「心の教え」である仏教は、煩悩と如何に向き合っていくかということを説いているのです。

煩悩がコントロールされないところに苦悩と絶望が生まれるのです。
その苦悩と絶望に負けてしまうと犯罪や自殺に繋がるのです。
ですから犯罪も自殺もそれは心を持った人間だけの不幸だと言えるのです。

因みに動物には心がありません。
「心」の無いところには煩悩が無いから苦悩も絶望もありません。
だから犬や猫は絶対に犯罪を犯しませんし自殺もしません。
動物の世界の弱肉強食は罪ではありません。生きるためのただの本能なのです。

頻発する通り魔事件も子供や肉親による家庭内事件も心の中の煩悩が渇愛となって生まれた苦悩と絶望から起こったものです。
渇愛とは愛情に飢えた心のことです。
その鬱積した不満が外に向かえば通り魔事件となり、内に向かえば家族殺害事件となるのです。
まさに親への当て付けと社会への逆恨みの表れなのです。

渇愛による偏愛は狂気となって、本人は勿論のこと被害者やその家族ばかりではなく自分自身の親や家族の人生までめちゃくちゃにしてしまうのです。
これ以上の不幸はありません。
その原因はすべて家庭にあるのです。
今の日本の家庭環境が改善されない限りこれからも通り魔事件や子供や肉親による殺害事件が減ることはないでしょう。

そして、もっとも残念なことは自殺です。
人にとってこれ以上の不幸はありません。
毎年三万人を超えています。
死を選ぶにはそれ相当の苦悩があってのことですが、その死によってさらに悲しみや苦しみを受ける家族や関係者が大勢出ることを考えると自殺こそ無くしたいものです。

その自殺の原因も心から生まれる苦悩と絶望によるものです。
命ある生き物の中で自ら命を絶つのは唯一人間だけです。
それは人間には心があるからです。因みに心の無い犬や猫は自殺しません。
人には心があるから苦悩があるのです。
経済苦、病気苦、失恋苦、対人苦などいろいろありますが、そのどれも人間の世界にしかないものです。

その「苦」が堪忍の臨界を超えると自殺となるのです。
それは決して他人事ではありません。
人である以上誰でもその可能性を持っているのです。
人間にしかない苦と、人間しかしない自殺。
言い換えれば人間だからこそある苦と自殺だと言えるのです。

  動物には心がありませんから苦悩がありません。
でもそれは羨ましいことではありません。
「心」が無いということは「楽」も無いということです。
人には心があるからこそ楽があり幸福感が味わえるのです。
苦も楽も表裏一体のものです。
だから仏教は常に楽が表になるような生き方を説いているのです。

そのためには如何に煩悩をコントロールするかです。
欲望は煩悩から生まれるものですが、問題はコントロール不能となった欲望です。
人には欲望があってこそ希望があり夢があり喜びがあるのです。
ですから仏教は欲望を否定しているわけではないのです。
正しい欲望の在り方を説いているのです。

連日報道されている大分県の教員採用汚職事件もそうです。
お金と地位と名誉という欲望がコントロールを失った結果です。
悪しき慣例に呑みこまれ極々当たり前の良識が麻痺してしまっていたのです。
地位も名誉も何千万円という退職金も一瞬のうちに吹っ飛んでしまいました。
刑事罰も受けなければなりません。

さらにまだ発覚を畏れて恐々としている職員がほかにもいるかもしれません。
点数偽造に使われたパソコンが警察から戻されたそうです。
不正を承知で合格した先生にとっては辛い毎日でしょう。
聖職といわれる先生も、欲望に聖域は無かったのです。

振り込め詐欺も今年は過去最悪でその被害額は300億円にもなるとか。
一日約一億円のお金が騙し盗られているそうです。
騙しのテクニックが驚くほど巧妙化しているのです。
狂った欲望に歯止めはできません。
悪事は必ず報いがあることを知って欲しいものです。

32歳にもなるバカ息子に金をせがまれてなんと六億円もの公金を横領した女がいました。
牛肉やうなぎやフグやアンコウの産地偽造も続々と出てきました。
尿の検査で癌が分かるというウソの試薬品で3億円も荒稼ぎしていた30代の女が捕まりました。霊感商法による被害も倍増しているとか。
どれもこれもコントロールを失った欲望の結果です。

人は家庭に生まれ家庭で育つのです。
心と体は一つのものですが、体だけが成長して心が取り残されてしまっているのが今の日本の家庭です。
ではなぜ心が育たないのでしょうか。
それは宗教です。今日本の家庭には宗教がほとんど無くなってしまったのです。

宗教は愛と真実とを教えてくれます。愛と真実から感謝と報恩が生まれるのです。
感謝と報恩の心があれば苦悩も絶望も生まれません。
だから犯罪もなくなります。自殺もしません。
幸福の原点は感謝と報恩です。

仏教とは人が幸せになるための教えです。
これまでにも何度も申してきた言葉です。
心についてさらに学んでみようではありませんか。

合掌

曹洞宗正木山西光寺