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法話

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法話--平成21年6月--

こころ(12)-- 即心即仏(後編)--

無門関第三十則 「即心即仏」(そくしんそくぶつ)
前回の「本則」の後の「拈提」と「頌」を看ていきます。

拈提
無門曰く、若(も)し能(よ)く直下(じきげ)に領略(りょうりゃく)し得(え)去(さ)らば、仏衣を著(つ)け、仏飯を喫し、仏話を説き、仏行を行ず、即ち是れ仏ならん。
然も、是(か)くの如くなりと雖(いえど)も、大梅多少の人を引いて、錯(あやま)って定盤星(じょうばんぜい)を認めしむ。
争(いか)でか知らん、箇(こ)の仏の字を説くも、三日口を漱(そそ)ぐと道(い)うことを。
若し是れ箇の漢ならば、即心是仏と説くを見ば、耳を掩(おお)うて便ち走らん。

「拈提」(ねんてい)とは「本則」に対してのいわゆる「提唱」です。
その後の「頌」(じゅ)とともに著者である無門禅師の悟りの境涯が述べられているものです。
要するに「本則」の解説ということです。
したがって「公案」は「拈提」と「頌」の理解があって了得されたことになるのです。

領略(りょうりゃく)は領得と同じで、よく分かること、はっきり受け取ることです。
「仏衣を著け、仏飯を喫し、仏話を説き、仏行を行ず、即ち是れ仏ならん」とは、悟ったその人が衣服をつければそれが仏の衣であり、その人がご飯を食べればそれが仏の飯であり、その人が話す言葉が仏語であり、その人の行為のすべてがそのまま仏の行となるということです。
「即ち是れ仏ならん。」そういう人こそ仏と云うべきだということです。

「然も、是くの如くなりと雖も、」とは「ところが、そういうことではあるが」ということです。
「大梅多少の人を引いて、錯(あやま)って定盤星(じょうばんぜい)を認めしむ。」定盤星とは動かないいわゆる秤(はかり)になっている星のことです。
「即心即仏」という語句を鵜呑みにすることは、秤の目盛りが絶対であるという観念に囚われることになり、それは多くの人をして仏の真相を見誤ることになるというのです。

「なるほどそうか、即心が是れ即仏か、何を苦しんで修行をして悟りを目指す必要があったのか」などという誤りを与えることになるのです。
それこそとんでもない邪見です。
"心のすべてがそのまま仏"だと信じることは悟りの心も煩悩の心も同じ心だと信じ切ってしまう恐れもあるのです。
つまり汚い言葉で言えば糞味噌一緒ということになるのです。

大梅が徹底して「即心即仏」と言っているが、その言葉を鵜呑みにしてしまうとそれこそ多くの人を「定盤星」の誤った認識に陥らせることになるというのです。
「多少の人」の多少は助字であり、つまり多くの人という意味です。

「争(いか)でか知らん、」とは、「どうして知っていようか」ということです。
「箇(こ)の仏の字を説くも、三日口を漱(そそ)ぐと道(い)うことを。」 「"仏"という言葉を口にする時、その仏という言葉それ自体はいわば煩悩という汚れであるから、その臭いと汚れも落とすには三日間も口をそそがねばならないということを彼は知っているのだろうか?」というのです。

「若し是れ箇の漢ならば、即心是仏と説くを見ば、耳を掩(おお)うて便ち走らん。」 「"こいつは"といわれる程の悟りを徹底している男ならば『心がそのまま仏だ』という言葉を聞いたら、そんなことを聞くのは耳の穢れだと言って、即刻耳を塞いで逃げ出してしまうだろう」というのです。

迷いや煩悩をいわば体についた汚れのようなものに例えれば、「悟り」はそれを落とす石鹸のようなものです。
しかし、その石鹸で脂や汚れが落ちても後に"石鹸"の臭いが少しでも残っていたのではダメなのです。
悟りに悟り臭さがあったら糞悟りです。ここが極めて重要なところです。

無門禅師は大梅の「即心即仏」の主張が杓子定規になっていればそれはもはや本物の悟りではないと言って「即心即仏」を抑えつけて言ったのです。
ところがこれも無門禅師の言貶意揚であって、大梅の「即心即仏」が馬祖の「非心非仏」と少しの違いもないことを暗に言っているのであり、同時に大梅の悟境を讃えているのです。ここの見極めも重要です。


晴天白日。切に忌む尋覓(じんみゃく)することを。
更に如何と問わば、臟(ぞう)を抱いて屈(くつ)と叫ぶ。

「晴天白日」は「即心即仏」を受けて、それはまさに天が晴れて日が輝いている如くはっきりしたものであるというのです。
尋覓は探し求めることであり、「即心即仏」などと言って今更仏がどうのこうのと探し求めることは実に慎むべきことであるというのです。

「更に如何と問わば、」とは、「さらにそれは何かと問うことは」ということです。
臟(ぞう)とは盗んだ品物のことで、屈(くつ)は屈辱のことで、屈を叫ぶとは無実を叫ぶということです。
盗人が盗んだ物を両手に抱えていながら、自分は他人の物を盗ってはいないと言い張っているのと同じだというのです。

つまり、「即心即仏」とはなんだかんだと説明するものではないというのです。
そのままでいいのです。つまり、あるがままです。
"そこ"を求めたらたちまち妄想になってしまうのです。
いつも言っているように"説明"や"認識"はそれ自体分別妄想なのですから。

「心」を理屈で理解することは論外でありまさに迷いそれ自体に外ならないのです。
あるがままの世界とは理屈の要らない世界です。そこを「晴天白日」と言うのです。
そんな理屈の要らない世界にあえて理屈を求めることはまさに盗人が盗品を持っていながら無実を叫んでいるのと同じだというのです。

何も求めない"ところ"に一切の迷いはありません。
"求めること"がすべて迷なのですから。すなわち何も求めない"こころ"こそ悟りだという、この頌の本旨はまさにそこにあるのです。

「求め心さえ絶対になければそれでよいのだ。悟りたい悟りたいなどと物乞い根性をちょっとでも起こしたらもうダメだ。
ただ単提だ。ただ忠実に「無!」 無! ム! ム!・・・と成り切り、生り切ったというものも無い単提だ。」(原田祖岳老師提唱) 無字の公案で「無とは何か」と考えたらもうダメなんです。

「無」と言ったらただそれだけです。理屈も解説も要りません。
「無」と言ったら「無」で完全です。それ以外はすべて余分なものです。
"余分のもの"をすなわち妄想、妄念と言います。
この"余分のもの"のゾーンを透過した先にあるものこそ"悟り"なのです。
この公案の主旨はまさにここにあるのです。

さて、そこで大きな疑問がまだ残っています。
前回、心がそのまま仏だと言いました。
心が仏だとしたらどんな心でも仏なのかという疑問です。
悪いことをするその悪い心も仏の心なのでしょうか。
結論からいえば「イエス」です。

悪い心は心でないということは絶対にありません。
「貧瞋痴と動こうが、食べたいと動こうが、憎い可愛いと動こうが、さては見るもの、見られるもの、きくもの、聞かれるもの、みな自己本来の一心だ。」(原田祖岳老師) どんな心も自己本来の心です。

さて、ではそこをどう理解したら良いのでしょうか。
その答えが「煩悩即菩提」です。
煩悩とは悪い心だけを言うのではありません。
良い心も悪い心もその全てが心である以上心のすべてをひっくるめて"煩悩"と言うのです。
すなわち煩悩とは心それ自体を指しているのです。

ですから「煩悩即菩提」とは「心即菩提」です。
「菩提」とは「仏」のことですから、「煩悩即菩提」とは「どんな心でもそのまま仏」ということになるのです。
このように良い心も悪い心もその実体は仏なのです。

しかしですよ。 これからが実に大事です。
実体を悟らない限り悪い心は悪い心のままなのです。
悪い心がそのまま悟りになる筈などありません。
悪い心がそのまま救われることなど絶対に有り得ません。
ですからここをどうか誤解しないでください。

御開山道元禅師が「本来本法性、天然自性身」の一言に大疑問を抱かれたのは有名ですが、この「本覚論(ほんがくろん)」の中にこそその"正解"があります。
「人の身体はもともと仏の身体であり、人は誰でも生まれながらに『仏の性質』を具えている」というものです。

「もし、わたしたちが、仏の体と心と同じように、もともと悟っているのものなら、これまで、この世にあらわれた仏祖の方々は、どうして、その上まだ、仏を求め修行をつまれたのか・・・」という疑問ですが、考えてみれば当然の疑問です。

禅師が比叡山にのぼられ五年も経った、まだ18歳にも至らない時のことですが、この疑問に答えられる者は誰一人いなかったのです。
失望のもとやがて叡山を去りますが、禅師が入宋の一大決心をされたのはまさにこの疑問に対する思いからだったのです。

正師如浄禅師の下、徹底修行の結果、やがて禅師は「身心脱落」されその大疑問をみごと晴らされたのです。
宋にわたってから二年あまり、二十六歳の時のことです。 なんたる天才でしょう。
「人の心はそのまま仏である」というその真意は"修行そのもの"だったのです。
すなわち「修証一如」です。

「即心是仏とは世の常情に染まぬ即心是仏であり、諸仏とは人の煩悩に汚れぬ諸仏である。
詮ずるところ、即心是仏とは、発心・修行・正覚・涅槃の諸仏にほかならない。
いまだ発心・修行・正覚・涅槃せざるには、即心是仏ではない。」
(正法眼蔵・即心是仏)

御開山は修行もしない心が「是仏」だなどとはあり得ないと示されています。
つまり修行する心こそ「即心是仏」なのだという、「修証一如」の真理から言ってもその意味は当然わかります。
ですから菩提心の「心」こそ「即心即仏」の「心」なのです。
これがこの公案の結論です。

人は心の実体が「畢竟空」だと悟ることで自己の尊厳、万物の尊厳を知るのです。
畢竟空の境地こそ自己の本質であり宇宙の実体なのですから。

合掌

曹洞宗正木山西光寺