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法話

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法話--平成20年2月--

因縁(その11)-- 縁は心で決まる --

前回、「縁」は必然であり、その縁と如何に向き合っていくかが問題だということを述べました。
さらに縁を選択できるということは人に与えられた「特権」だとも述べました。
果たしてほんとうにそうでしょうか。その点についてもう少し考えてみたいと思います。

まず「必然の縁」とは"与えられた縁"であるということです。
川の流れの中でぶつかる岩は必然の出会いです。
生まれてきた親の下も必然の縁です。
「必然」の縁だから子供にとって親は選べません。

一方の「選択できる縁」とは、必然の後の「対応の縁」を意味します。
対応の縁とはこれから"どう向き合うかという縁"のことです。

例えば、ある会社員が転勤命令を受けました。
その場合転勤命令は受け止めなければならない必然の縁です。
しかし、その「命令」に対して人はどうするか選択できます。これが「対応の縁」です。
つまり、人が受け止める縁は必然ですが、対応で縁を選択できるのです。

人生は縁の選択の連続だとすると、良い人生も、悪い人生もそれぞれの選択の積み重ねの結果だということがわかります。
ですから"縁に流されて"しまうのではなく、しっかり向き合うべきなのです。
そして、普通「縁」というと何か特別の出会いや出来事を思い浮かべる人も多いかと思いますが、実は毎日の生活のすべてが縁だということを認識して欲しいのです。

今食べていることも、話していることも、歩いていることも、車に乗っていることも、働いていることも、即ち朝起きてから寝るまでの一挙手一投足の行動の全てが「縁」との「対応」と「結果」なのです。
結果が次の必然であり、その必然との対応が次の結果をもたらすという、人生は縁の展開なのです。

そこで考えなければならないことは、必然の縁には当然好ましい縁もあれば好ましくない縁もあります。
しかし、好ましい縁であっても扱いによっては悪い結果となりますし、悪い縁であっても扱いによっては良い結果をもたらすことを自覚すべきです。

また、良い縁だけが与えられる人生なんて絶対にありませんし、また悪い縁だけが与えられるということも絶対にありません。
どんな人の人生もさまざまな縁のぶつかり合いなのです。

ですから、人はどんな縁に対しても"選択"で勝負をしなければなりません。
しかしその勝負にいつも勝てるとは限りません。なぜでしょう。
それは人の人たるゆえんです。

そのゆえんとは「こころ」です。
人の行動のすべては、意識的にしろ無意識的にしろ、「心」によるものだからです。
ですから、どんな縁でもそれを好転させるかどうかはその人の心に掛かっているのです。
ということは、人生を決めるのは縁ではなく、その縁をコントロールする「心」だということになりますね。
つまり「こころ」こそ縁の「よるべ」なのです。

ですから仏教は「心」を第一番の問題と捉えているのです。
仏教は「仏陀の教え」ですが、一言で言えば心のあり方の教えです。
お釈迦さまは真理を悟られて、人にとって心こそ最大の問題だと認識されました。

つまり、人は心を豊かにすれば幸せになれるし、心を貧しくすれば不幸に陥るという極めて単純明快な教えなのです。
しかし、お釈迦さまの教理はお悟りから生まれた深遠で妙たるものなので人々には大変難しかったのです。
悟りの世界のことは悟りを体験せずには理解はできなかったからです。

どんな体験でもそうですが、その内容を言葉だけで100パーセント人に理解させることは無理です。
それと同じことで、悟りの智慧は悟ってこそ初めて理解できるのです。
だからこそ、お釈迦さま以来あまたの修行者が命がけで修行をしてきたのです。
悟りの智慧とはそれほど価値のある凄いものなのです。

その仏教も初めは「学問」だったと考えられるのです。
科学、物理学、医学などと同じような「哲学」でした。
普通「~学」という学問であれば案外簡単に証明ができますから誰にでも容易に理解できます。

科学も物理学も医学もみんな"証明"や"立証"ができる「学問」なのです。
では仏教はなぜ宗教になってしまったのでしょうか。
その理由を持論で述べてみたいと思います。

特にインド文化においては哲学を教える先生などは仙人のような扱いを受けたそうです。
先生の教えを頂くときにはまずお線香を立てて礼をしてからという習慣があったそうです。
仏教が"宗教"になってしまった要因にはそうした環境も考えられますが、私は一番の理由は一言で言えば仏教の持つ「凄さ」だったと思うのです。

仏教は小乗から大乗に至りました。
その大乗の中でさらに顕教から密教に進化しました。
特に密教は理論で理解できない世界です。理論で理解出来ないことを「不思議」といいます。
不思議とは「思議すること不可能」ということであり、人の考えや思いの及びのつかない世界のことを言います。

先に、仏教は悟りの智慧から出た教えであり、その体験無くして真に理解できないということを述べましたが、それは即ち証明や立証のできない世界だということになります。
証明、立証ができないものは「学問」の範疇ではなくなります。

証明や検証ができないものは「不思議」なものであり、その「不思議」な感覚、感情を与えるものをカリスマと言います。
そのカリスマに人は惹かれ興味や憧れを持つのです。
その畏敬の心が「宗教心」になるのです。

お釈迦さまにはその凄いカリスマがあったのです。
私の言う仏教の「凄さ」とはそういうことです。
不思議な人、不思議な世界に人は惹きつけらます。
そこは理屈無しに信じられる世界になるのです。
理屈を超えて信じる世界、それが「宗教」です。

ただし、いつも言うように宗教にはいろいろあるので気をつけなければなりません。
宗教といわれるものはみな一様に「幸せになる」ための教えを謳っていますが、盲信は絶対ダメです。
実体を見極めないと「邪教」や「外道」に陥る結果にもなりかねません。

おかしな宗教によって不幸になったり人生を狂わせられたりしたケースはいくらでも有りますし、これから将来も人類が続く限りそういったことが無くなることは絶対にありません。
それは人間とは宗教的生き物だからです。気をつけましょう。

以上、仏教と宗教との関係について述べてみましたが、要するに、仏教とはただただ「心の教え」だということです。
どうやって悩みを無くすか。どうやって苦しみを無くすか。どうやって完成された人格をつくるか。つまり、どうやって「心」を豊かにするかについての教えが仏教なのです。

我々は、見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、体で感じたり、考えたり、喜んだり、悲しんだり、怒ったり、楽しんだり、嫉妬したり、憎んだり、愛したりしますが、これらはすべて「心」の働きによるものです。

心の働きと言いましたが、これほど科学や医学が進歩した現代においても心の実体が解明されたわけではないのです。
いくらレントゲンをかけてもMRIで解析しても体のどこにも「心」の実体が確認できません。
その形も場所もわかっていないのが現実なのです。

辞書には「人間の精神作用のもとになるもの。またその作用。知識、感情、意志の総体。」などと定義されていますがきわめて抽象的です。
では、仏教はその「心」をどう捉えているのでしょうか。

御開山道元禅師は「よろずの存在がそのまま心である。三界はただ心である。」「正法眼蔵(心不可得)」と示されています。
この意味は、「存在のそれ自体が心である」ということです。

さらに、「心とは、一心一切法、一切法一心である。」「正法眼蔵(即心是仏)」と示されています。
この意味は、「心が即ち一切の存在であり、一切の存在が即ち心である」という意味です。

これらは一体どの様に理解すればよいのでしょうか。
これからその「こころ」についてさらに考えてみたいと思います。

合掌

曹洞宗正木山西光寺