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法話

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法話--平成26年8月--

四諦--苦諦その4 病苦その2 病気にならない生き方 その13 ―平和ボケ症-その4―

8月といえばお盆です。昔からこの時期多くの人達が故郷に帰ります。
家族が揃ってご先祖様に報恩感謝の供養を捧げ、家族一統の幸福をお願いするのです。
日本人にとって、お盆はお正月と並んでまさに国民的文化行事なのです。

江戸時代、お正月とお盆には奉公人が休みをいただき実家に帰ることができました。
これを「藪入り(やぶいり」と称しました。
その語源は「奥深い田舎に帰る」といった意味だそうです。
主人たちも様々な手土産を持たせ奉公人を送り出したとか。

よく「盆と正月が一緒にきたようだ」とかいいますが、それはうれしいことや楽しいことが重なること、また、非常に忙しいことのたとえに使われますが、それは年に二度故郷の家族のもとに帰れる「藪入り」に始まったのです。

戦後、労働基準法により労働スタイルが変化し、日曜日を休日とするようになったことで「藪入り」はすたれましたが、そんな伝統は正月とお盆の帰省として残りました。
お盆とお正月には妙に心が躍るのはそんな「藪入DNA」のせいなのかもしれません。

ちなみに、古代から新年最初の満月の日(旧暦1月15日)と、半年後の満月の日(旧暦7月15日)の2回、祖霊を祀る風習があり、やがて1月の方は年神を祀る小正月へと変化し、7月の方は先祖を祀る行事として仏教のお盆と習合されたと考えられます。

また、お正月の方を「藪入り」と言い、お盆の方を「後の藪入り」と言って区別する場合もあります。
よく、お盆の16日には「地獄の釜の蓋が開く」と言いますが、これも藪入りに無関係ではなさそうです。

地獄には罪人を呵責するための釜があるそうです。
ちなみに釜には、火焔の釜、膿と血の湯釜、蛆虫の水釜などというものがあるとか。
地獄では閻魔大王のお裁きを受けた罪人たちが鬼たちによって次々と釜の中に放り込まれています。
浜の真砂のごとく罪人の数は尽きません。
さすがの冷酷無慈悲の鬼達にとっても大変な労務作業です。

そんな鬼達を労うために年に一度だけ休みが与えられました。
それがお盆の16日です。
すなわち、地獄の"釜の蓋を開ける"休日になったのです。
一方の罪人達にとってもこの日だけは呵責を免除される"休日"でもあります。

ということで、地獄でさえ休みになるというこの時期に誰でも皆休みをとって家に帰ろうというのが、すなわち「後の藪入り」の由来になったのかもしれません。

地獄の釜の蓋が開いているということは、ひょっとして、罪人達もその日一日だけは釜から出ることが許されるかもしれません。
閻魔大王は地蔵菩薩の化身とされています。地蔵菩薩は慈悲の仏さまです。
地獄に落ちたどんな悪人でも年に一度の里帰りのチャンスが与えられたとは考えられないでしょうか。(私見ですが)

他方、地獄の釜の蓋は7月1日に開いて7月30日に閉まるという説もあります。
旧暦7月はまるまる1ヶ月間お盆月(盆月)とされ、この期間は祖霊があの世とこの世を自由に行き来するというのです。

ちなみに、7月7日は七夕ですが、お盆の準備として精霊棚に供養の幡を安置する日だったため、棚幡が七夕になったという説もあります。
盂蘭盆経にある目連尊者のお母さんが餓鬼道から救われたのも7月15日です。
7月24日が地蔵盆であることなど、旧暦の7月は確かに盆月と言えるでしょう。

極楽往生されているご先祖様のみならず、餓鬼道や地獄道に落ちている罪人までも、お盆には「里帰り」が許されると考えられないでしょうか。
つまり、生きている人達も亡くなった人達も、すべての者が「藪入り」を享受するのが即ちお盆なのです。

そんなお盆の8月15日がちょうど終戦日になったことに因果を感じるのは拙僧だけではないでしょう。
過去の大戦で亡くなった230万もの英霊もお盆にはそれぞれの実家に帰りますが、その英霊に捧げる真の供養とは何でしょうか。

戦後69年も経ったとはいえ、祖国日本のために命を落とされた英霊たちへの恩義は薄らぐことはありません。
年と共に薄れるのは、我々生きている人間の「記憶」と「気持ち」と「器量」の方です。これをうつろいゆく3Kといいます。(持論ですが)
どんなに年が経っても決して薄れることのないのが恩義であることを知るべきです。

そんな69年前の戦没者の思いに心を馳せたとき、英霊たちが戦争を肯定しているとはとても思えません。
それらを鑑みたとき英霊に捧げる真の供養とは、まさに戦争放棄、不戦の決意こそが英霊の恩義に報いることではないでしょうか。

毎年8月に入ると挙ったようにマスコミが過去の大戦への反省と検証をテーマにした関連番組を放送します。
7月10日の東京大空襲にはじまり、8月6日の広島原爆、9日の長崎原爆、今年はなかでもNHKが特番として放送した「忘れられた戦争『ペリリュー島の戦い』」は実に凄惨なものでした。

NPO法人主催の映画「ひろしま」も見ましたが、戦争は、ただただ敵を殺すことです。
エスカレートしていくと虐殺行為さえ躊躇しなくなってしまうのです。
それが人間の性なのかもしれません。
東京大空襲、広島、長崎原爆では7万~10万人以上の人間が一瞬のうちに虐殺されたのです。

平和な時代には一人でも殺せば殺人罪です。
戦争ではそれが何人殺しても罪になりません。こんな不条理はありません。
東京大空襲を指揮したアメリカの軍人カーチス・エマーソン・ルメイ大将に戦後第一次佐藤内閣は、自衛隊育成に協力があったという理由でなんと勲一等旭日大綬章を与えているのです。

戦後、ルメイは「我々は東京を焼いたとき、たくさんの女子供を殺していることを知っていた。やらなければならなかったのだ。我々の所業の道徳性について憂慮することはーふざけるな」と語ったのです。

また、日本爆撃に道徳的な考慮はと質問され、「当時日本人を殺すことについてたいして悩みはしなかった。私が頭を悩ませていたのは戦争を終わらせることだった。もし戦争に敗れていたら私が戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸運なことに我々は勝者になった。軍人は誰でも自分の行為の道徳的側面を多少は考えるものだ。だが、戦争は全て道徳に反するものだ」と答えています。

戦争では敵という人間を殺せば殺すほど英雄になります。
本人に罪の意識はありません。
その実態はまさに鬼畜であり悪魔です。何という理不尽でしょう。
そんな不条理な戦争を起こすことだけは絶対に避けなければなりません。

集団的自衛権賛成の人達の主張は、他国から攻撃された時は友好国の助けを得るのに、逆のばあいは憲法9条を盾に助けることを拒否するのは身勝手であり卑怯だというのです。
たしかに、信頼関係にある友好国や同盟国の関係からすれば道義的にも当然な理屈かもしれません。

しかし、戦争を起こす同盟国側にいつも大義があるとは限らないのです。
たとえばイラク戦争をみてください。
大量破壊兵器があると信じて多くの国がアメリカに追随しましたが、結果はアメリカに躍らされただけでした。
今では大義のない不毛の戦争だったとして参戦した国々はおおいに反省しています。

このように、一旦集団的自衛権が認められてしまうと、その戦争に大義が有ろうと無かろうと道義的に同盟国のために参戦せざるを得なってしまうのです。
敵対する国が一国とは限りません。
その場合同時に多くの国さえ敵にまわすことにもなるのです。

憲法9条は決して自分よがりのものではありません。
それぞれの国が、軍備は最大限保障に留め、「専守防衛」に徹すれば戦争の確率は極めて少なくなる筈です。
日本こそがその先駆けになれるのです。

合掌

曹洞宗正木山西光寺